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2009年6月14日 (日)

わけありブームの終焉 

ヒット商品応援団日記No375(毎週2回更新)  2009.6.14.

夏を目前にして上野松坂屋が行う冬物バーゲンセールに多くの顧客が押し寄せ、話題になっているとTVメディアが報じている。いわば問屋の倉庫に眠っているアウトレット商品のバーゲンセールである。更に、百貨店での下取りセールの対象が衣料や靴ばかりでなく、浴衣まで広がったとも。周知のように、本格的に下取りという販促を初めて行ったのはイトーヨーカドーであるが、過去6回実施され、日経ビジネスによると下取り点数は累計で270万点近くに及んでいる。マスメディアは価格にしか視点を当てていないが、実は生活者のライフスタイルそのものが根底から変わり始めているのだ。相変わらず意味あるニュースとはほど遠い、企業から送られてきたリリース情報を流すだけである。

昨年から取り上げてきたわけあり商品もどの流通も取り扱うようになったが、わけあり業態の一つであるアウトレットの出店が急増する計画となっている。少し前に、ある地方の町長と話をした時、その町にこのアウトレットを誘致するか否かの議論・検討を行ったと言う。その町には高速道路のインターチェンジがあり、近くには町が保有する広大な土地がある。誰が考えてもアウトレット誘致としては最適な条件が整っている町である。町の活性、町財政の改善、こうした表向きの理屈もあるが、アウトレットが出来ることによって周辺の市街地商業は更に疲弊し、唯一ある百貨店は間違いなく撤退する、そんな議論を行ったと言う。それで結論はと聞くと、以前郊外に大きな商業施設をいくつも誘致したが一時活性はしたが、次第に中心市街地は空洞化しシャッター通り化してしまった。今は、その反省から、町が持っている自然や歴史文化資源をテーマとしたビジネスを育てていくことを通じ、そこに住む住民や企業に貢献したいと。単純化して言うと、「外から持ってくる」から、「内にあるものを育てていく」への転換の話しであった。

昨年秋以降、東京ばかりか大阪も同様であると聞いているが、家庭に残る不用品回収の車がひっきりなしに回ってくる。それに合わせたようにリサイクルショップやリペアショップが続々とオープンしている。これもわけあり業態の一つである。リサイクルショップの全国的FC展開も盛んである。既にリサイクル商品の価格競争も始まっている。しかし、よくよく考えれば、インターネット普及のキラーコンテンツの一つがオークションサイトであった。既に新品、中古品、趣味から必需品、車まで、最近では不要となった店舗やオフィス、校舎に至まで数多くの商品が安く個人単位でも流通している。町の商店から百貨店、ネット上まで、わけあり商品で全てが埋め尽くされている。そして、今やリサイクル商品、アウトレット商品、規格外商品、多くのわけあり商品の在庫が家庭にも、問屋にも、メーカーにも無くなっている情況だ。わけありバブルとまでは言わないが、わけありへの過剰さが至る所で見かけるようになった。

以前このブログに書いたが、わけあり商品もそうであるが、マスメディアが取り上げる頃はブームやトレンドのラストシーンであると。つまり、一番最後の段階でそれら情報を手に入れるのがマスメディア、特にTVメディアである。新聞においては記者クラブ制、TV局においては下請け・孫請け会社への丸投げ委託、つまりダイレクトな現場情報がほとんどないのがマスメディアだ。二次情報、三次情報を入手し加工するのが今や主要な仕事となってしまった。
わけあり商品も、わけあり業態も次第にその鮮度を落としていく。つまり、日常化し、至極普通になっていくということである。この1年間で、生活の中にしっかりと定着し始めており、最早ニュースにはならないということだ。

「価格競争のゆくえ」のところでも書いたが、当分こうした競争が続き、わけあり商品やわけあり業態もマスメディアにこれからも露出すると思う。しかし、敢えてわけありブームは終わったと考えた方が良い。
以前、「割り算の経営」というタイトルでブログを書いたことがあった。いわゆる「掛け算の経営」と対比させて書いたものである。売上×店数、客数×客単価、商品単価×数量といった考えを根底に置いた規模経営を、私は掛け算の経営と呼んだ。今、わけあり商品も「掛け算の経営」へと向かっている。つまり、量を追いかけた経営ということである。「割り算の経営」は小さな単位へと、これでもかと割り算をしていく経営である。小売りで言うと、店単位から売り場単位へ、売り場単位からコーナー単位へ、コーナー単位から商品単位へと、小さな単位で経営を考えていくのが割り算の経営である。特に、安心が時代のキーワードとなっており、安心こそ細部に宿るものだ。このままわけあり商品の量を追いかけた経営を進めていくと、大きな落とし穴、社会的問題が発生する予感がしてならない。1年前、あろうことか汚染されていることを知りつつ、いや汚染されていることを熟知し極めて安価な米を転売し利益を得るといった汚染米事件を経験してきた。わけあり商品の仕入れ先がいつしか海外へと見えないところに向かう時、また同様の事件が起きる可能性がある。

私が本格的にわけあり商品を取り上げたのは、1年前のエブリデーロープライスのOKストアに関するブログであった。その中で、OKストアのMDコンセプトに着目した。何故安いのか、その訳を丁寧に店頭表示し、顧客納得を得て販売していくオネスト(正直)コンセプトについてであった。店頭には安いわけあり商品が並ぶが、その裏にはオネスト、顧客に正直に伝える商品ということである。つまり、わけあり商品とは正直商品ということだ。残念ながら、ブームはいつしか本質を見失い、コンセプト、正直さとは正反対の極へと振れていく。(続く)

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2009年6月 3日 (水)

都市の無縁空間

ヒット商品応援団日記No372(毎週2回更新)  2009.6.3.

先週久しぶりに秋葉原駅周辺の街を1時間半ほど歩いた。あるデベロッパーからの相談で、どんなテナント編集をしたらよいのかサジェッションして欲しいということからであった。ちょうど1年前には17人が死傷した秋葉原無差別殺傷事件が起きたあの秋葉原である。当時を思い起こさせるものは残ってはいないが、私の脳裏には当時のニュース映像がくっくりと残っていた。あと数日で1年を迎え、事件被害に遇われた多くの方々が秋葉原を訪れ、献花されることであろう。

ところで秋葉原を歩いて感じたことだが、都市がもっている2面性が極めて分かりやすく街を構成していることであった。その背景には、東京都とJR東日本による巨大な再開発プロジェクトが進んでいることによる。秋葉原駅の北側は既にいくつかの超高層ビル群が建ち、その入居企業の多くはIT関連企業、携帯電話から情報通信機器やデジタル家電などの各種ソフト開発を行う企業群である。もう一つのプロジェクトが東北、上越、長野、山形、秋田の新幹線を東京駅へと直接乗り入れさせる計画である。そのために御徒町ー秋葉原間の高架工事が既に始まっており、4年後には御徒町ー秋葉原ー神田ー東京駅間が高架化される計画である。つまり、この線路の高架下に巨大商業施設が出現するということである。そして、この計画に沿って、秋葉原駅も大きくリニューアルし、駅上には高層ビルが建つと聞いている。都市がもつ2面性の一つがこうした地球都市とでも呼べるような先端技術ビジネスを行う街並である。既に高層ビルの一階にはオープンカフェがあり、ゆったりとした駅前をネクタイ姿のサラリーマンやOL、更にはアジア系のビジネスマンが行き交う、そんなハイスタイルな空間となっている。

さて、都市が持つもう一つの特徴はと言うと、まさに秋葉原駅北側とは正反対の街並が駅南側及び西側にある。周知の電子部品や電気製品のパーツ、半導体、こうした電機関連商品を販売している専門店街。あるいはオタクの聖地と呼ばれるように、コミック、アニメ、フィギュアといった小さな専門店。数年前話題となったメイド喫茶も、こうしたごみごみとした一種猥雑な街並に溶け込んでいる。まるで地下都市であるかのように、ロースタイルと言ったら怒られるが定番のリュックサックを背負ったオタクやマニア、あるいは学生が行き交う街である。駅北側がオシャレなオープンカフェであるのに対し、この一帯は、おでんの缶詰で話題となったようにユニークな自販機が置かれている。

私は秋葉原の駅北側の再開発街とそれを囲むように広がる南西の旧電気街を、地球都市と地下都市という表現を使った。更に言うと、表と裏、昼と夜、あるいはビジネスマンとオタク、風景(オープンカフェ)と風俗(メイド喫茶)、デジタル世界(最先端技術)とアナログ世界(コミック、アニメ)、更にはカルチャーとサブカルチャーと言ってもかまわないし、あるいは表通り観光都市と路地裏観光都市といってもかまわない。こうした相反する、いや都市、人間が本来的に持つ2つの異質さが交差する街、それが秋葉原の魅力である。

2つの異質さが交差するとは、2つの世界の境界といった方が分かりやすい。境界という概念を教えてくれたのは歴史学者網野善彦さんであるが、結論から言うと、日本商業発展の場である市場(古くは市庭/交易)の原初は荘園と荘園との境界、縁(ふち)で行われていた。平安時代、市の立つ場所・境界には「不善のやから」が往来して困るといった史実が残っている。つまり、場としても精神的にも無縁空間(今で言うと、縁のない人が行き交う多国籍空間)で無法地帯化しやすいということだ。そうした境界の無縁空間は、そこに寺社を立てコントロールしてきた、と網野さんが教えてくれた。まさに、秋葉原はそうした2つの異質さが出会う境界にある街である。

都市市場は必ずこうした異質な2面性を持っている。秋葉原ほど明確ではないが、新宿も同じような2面性がある。例えば西口には都庁を始めとした高層ビル群のオフィス街、東口から更に東には歌舞伎町を始めとした歓楽街が広がっている。更に、北側には新大久保駅周辺には韓国の人達が多く住み、コーリャンタウン化しているように。
こうした異質さが交差する都市の境界、無縁空間に、実は新しい「何か」が生まれてくる。今やオタク文化もサブカルチャーとして社会の表舞台に上がっているが、その芽が出てきた1980年代にはほとんど無視された存在であった。オタクという名前は中森明夫氏がつけたものだが、当時は一種の蔑称で市民権を得たのはここ10年ほど前からである。周知のように、2チャンネルのスレッドから始まった「電車男」の書籍化・映画化、萌え系、メイド喫茶、少し前にはAKB48といったオタクのマスプロダクト化によって広く知られるようになった。

このように、秋葉原は2つの異質さを取り込むことをエネルギーとして、商品を産み、育て、マスプロダクト化させた典型的な街である。同時に、秋葉原無差別殺傷事件を起こした加藤智大被告のような「不善のやから」も残念ながら出てくる。異質さが交差する境界、無縁空間の街だからだ。網野善彦さんの言葉を借りれば、こうした境界・市場の立つ場所を辺界と呼び、市の思想には寺社といった聖なるものが必要であったという。日本人は神仏という聖なるものとの関係、縁にはこうした見えざる世界との関係性がある。今も続いている寺社での縁日は、こうした聖なる神仏が降りてくる有縁の日という意味である。
久しぶりに秋葉原の街を歩き、そのエネルギーを感じながら、有形、無形の縁日が必要だなと思った。(続く)

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2009年4月26日 (日)

映像の裏に潜むもの

ヒット商品応援団日記No361(毎週2回更新)  2009.4.26.

ブログを閲覧する人間であれば100%スーザン・ボイルおばさんの歌声を聴いたと思う。youtubeにアップロードされた英国のオーディション番組『Britain’s Got Talent』に現れたあのスーザン・ボイルおばさんである。親しみを込めて「おばさん」と呼ばせてもらうが、一見して60代に見える47歳の女性、キスを一度もしたことのない独身女性が恋のやりとりをテーマとした「Cry Me a River」を歌うのである。誰もが勝手に外見と同じように歌も冴えないものになるだろうと思っていた。が、である。ワンフレーズ聴くか聴かない内に、驚きから感嘆へと変わる。その素敵な歌と共に、人は外見じゃない、見た目で判断してはいけないと、教えてくれた。

今、私たちを取り巻くあらゆることは映像が支配している世界と言っても過言ではない。「見た目」という価値観がどんな時間的推移となって今に至っているか正確な分析はまだ誰も行ってはいないが、情報発信のメディアとそれを受け止める生活者側の意識変化の相互によるものであろう。
まだモノ不足であった1970年代までは、それまでの「見た目」以前のモノ欲求から少しづつ「違い」の芽が出始めた頃であった。1980年代に入り、豊かさと共に次第に「見た目」を含めた情報価値のウエイトが高まってくる。その代表事例が、1980年代初頭のDCブランドブームであり、デザイン価値が生活者、若者の大きな関心テーマとなった。そして、バブル崩壊はあるものの、1990年代は競争市場下で差別化のために、商品からパッケージデザイン、VMDによる店頭での陳列、店の雰囲気、広告や販促といったトータルコミュニケーションがテーマとなった。「見た目」はその中でも最重要テーマとなった。つまり、最近まで「見た目」が一番、「中身」という商品やサービスは二の次、三の次の時代となった。

しかし、周知のように「見た目」にいかに嘘が多かったか、多くの情報偽装事件を2年ほど体験学習してきた。同時に、昨年からの世界同時不況をきっかけに、一斉に消費価値観そのものが変わった。「巣ごもり消費」あるいは「○○したつもり消費」「××の替わり消費」というキーワードに代表されるように、「見た目」から「内実」へと大きく振り子が振れた。そうした消費のキーワードが「わけあり消費」であり、「見た目」で選ぶのではなく、規格外でも内実さえ良ければ安いものを選ぶといった価値観へと変わった。あるいは初期は値段が張るが、長く使えば結果得になる。一言でいえば、大量生産大量消費、特に使い捨て時代は終焉したということだ。

「見た目」という映像情報の中で一番大きな役割を果たして来たのがTVメディアであった。あったと過去形にしたのは、「見た目」を全てに優先し、しかも善悪、好き嫌い、といった二元論で全てを編集するやり方にある。以前、筑紫哲也さんが亡くなった時、次のようにブログに書いた。
「天野祐吉さんは『ニュースに声を与えてくれた人』と語っていた。同時に、膨大な情報を整理し、防波堤の役割を果たしてくれていたと思う。多事という情報を争論できるようにしてくれた訳である。言葉は声であり、また文字である。」
言葉を失い、膨大な映像情報だけを繰り返し流す、しかも狭い特定情報だけを流す大量生産大量消費メディアに成り下がってしまったからだ。

その象徴例が今回の草なぎ剛による「公然わいせつ容疑」の事件報道であろう。たしかに法的には反する行為ではあったが、逮捕するほどの行為ではなく微罪である。これほどまでに揃って大騒ぎする事件ではない。「見た目」という視座しかない「声」を失ったTVメディアにとって、「見た目」の代表として人気の高い草なぎ剛があったのだと思う。しかも、あろうことか後に発言を訂正したが、あの総務大臣が草なぎ剛を「最低の人間」呼ばわりするといった大騒ぎである。しかし、生活者の側の興味はそんなところにはない。もし、あるとすれば、深夜全裸になって騒いだ草なぎ剛は、何を脱ぎ捨てたかったのだろうかという「声」を聴きたかったと思う。これは私の勝手な推測ではあるが、「見た目」という衣を脱ぎ捨て、あるがままの自分、等身大の自分になりたかったのではないかと。吉田拓郎流に言うならば、「ガンバラないけどいいでしょう」ということだ。「見た目」は創られてきた。しかし、生活者はその奥にある「内実」へと向かっている。(続く)

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2009年3月 4日 (水)

神経症の時代へ

ヒット商品応援団日記No346(毎週2回更新)  2009.3.4.

今や一般的なキーワードになっている「自己防衛市場」をこのブログで取り上げたのはスタートしたばかりの2005年8月であった。その時、私は次のように書いていた。

「食においてはBSEから始まり鳥インフルエンザ、多発する少年犯罪、どうなるか分からない老後生活・・・多くの不安という壁に囲まれて生活をしており、全ての行動が自己防衛的自己納得的なものとなっている。」

そして、そのブログを書いた1年後、夕張市の財政破綻を受けて、2006年11月には次のように私は書いていた。

「一方、日常生活の無駄・無理削減の創意工夫、知恵やアイディアが更に求められるようになる。自家菜園、手作り料理、手作り生活、こうしたセルフスタイルが生まれてくる。ある意味でホームリサイクルといった考え方から、そのための道具などに注目が集まる。また、手作りといった時間のないOLにとっては、全てが『小単位』の購入となる。これは単なる食の物販といった世界だけでなく、サービスの小単位化も生まれてくる。今流行の岩盤浴やマッサージのような時間サービスばかりでなく、部分サービスのような小単位化が出てくる。そうした、小単位のモノやサービスを賢く組み合わせて生活する、自己防衛的生活へと向かっていく。」

言葉としては「巣ごもり」というキーワードで表現されているが、まさに今日の姿そのものである。BSEを中国冷凍餃子事件、少年犯罪を秋葉原無差別殺傷事件、老後不安を消えた年金、夕張市の破綻をリーマンショック、これらの言葉に置き換えても消費市場の在り方はまるで変わらない。いや、事態はもっと深刻になっているということだ。

ところで、ちょうど1年前、一昨年流行ったKY語社会の意味について次のようにブログに書いた。

「KY語は現代における記号であると認識した方が分かりやすい。記号はある社会集団が一つの制度として取り決めた『しるしと意味の組み合わせ』のことだ。この『しるし』と『意味』との間には自然的関係、内在的関係はない。例えば、CB(超微妙)というKY語を見れば歴然である。仲間内でそのように取り決めただけである。つまり、記号の本質は『あいまい』というより、一種の『でたらめさ』と言った方が分かりやすい。」

そして、KY語社会の意味について、更に次のようにも書いた。

「言葉を使うとは常に『過剰』と『過少』との間で揺れ動くものだ。『外』へと向けた過剰情報、サプライズの時代を経て、KY語が広く流布している『今』という時代は、過少、『内』に籠った言語感覚の時代なのかもしれない。・・・・・・若い世代においても同じで、学校給食の揚げパンを例に挙げ『思い出消費』について書いたことがあった。思い出を聞いてくれる『商品』、思い出を丁寧に聞いてくれる『聞き手』を欲求している時代ということであろう。『かっわいい〜ぃ現象』も『私ってかわいいでしょ』という『聞き手』を求め、認めて欲しい記号として読み解くべきだ。」

残念ながら、このブログを書いた3ヶ月後、こうした「聞き手」をネット上に求めたが、結果バカにされ居場所を失い凶行に及んだのがあの秋葉原無差別殺傷事件であった。凶行に及んだ加藤容疑者のケータイに残された書き込みはまさにネット世界という虚構の社会集団だけに通用するKY語であった。まるで、聞き手のいない掲示板にもう一人の自分が聞き手になって話しているかのようである。つまり、2台の携帯による自己内会話だ。

私は10年ほど前から消費市場は心理化しているとの認識のもとで多くの企画を立案してきたが、今や経済は顧客心理によって動くことは当たり前となった。その極端な顕在市場が依存症市場である。特に、都市市場において顕著であるが、携帯依存は言うに及ばず、占い、サプリメント、アルコール、ギャンブル、各種の薬物、・・・・これら依存症の背景にはバラバラとなった個人化社会が起因している。依存は荒んだ心理が身体にまで及んだ生体反応であると思う。つまり、時代が産んだ一種の病理現象だ。地方には形を変えているとは思うが、東京新宿歌舞伎町の早朝ホストクラブには出勤前の若い女性達で一杯である。表向きにはストレス発散ということだが、今やホスト通いが日常化し、ホストクラブ依存症と呼んでもおかしくない情況である。


心理化した市場は、神経症的な過敏な傾向を見せ始めている。モンスターペアレントやキレルという言葉が象徴しているように、単なる過敏を超えた異常な現象まで現れてきた。周知のように自殺者は年間3万人を超えたままで、東京に住んでいると分かるが、電車が遅延するほとんどが人身事故で、そのほとんどが自殺者によるである。対象が見えない恐れの感覚、漠とした不安が集団的失意に向かう時、それこそが危機となる。社会に蔓延しているヒーロー待望、カリスマ願望、当の米国より高いオバマ人気などはそうした失意の表れであろう。残念ながら、経済の悪化を追いかけるように、社会不安が覆い尽くす。

癒しや和みなどといったキーワードでは、最早解決できないところまできてしまった。依存という異常消費をも自己防衛しなければならない、そんな時代の入り口に来ていると思う。売る側は少しでも多くを売りたい、だから依存顧客をヘビーユーザーと言う。しかし、そんな売って終わりのビジネスではなく、売ることから始めるビジネスの原則、顧客を思いやる本来の顧客主義に立ち帰らなければならない。それには、まず当の顧客の聞き手になることだ。以前、取り上げた鹿児島阿久根市のA・Zスーパーセンターの商品MDは顧客に聞くことから始めている。結果、仏壇を品揃えしたり、車まで売り、醤油に至っては地場醤油など200種にも至ったと聞いている。そして、何よりも大切なことは、依存につけこんではならない。売らないことも商業者としての義務、そんな時代の入り口に来ている。前回書いたが、新しい和魂洋才による「もう一つのニッポン」を創らなければならない。(続く)

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2009年2月22日 (日)

消費という欲望の輪郭

ヒット商品応援団日記No343(毎週2回更新)  2009.2.22.

10数年前、戦後のモノ不足を終え物質的豊かさを手に入れ、次の段階へと進むために「個性化」というキーワードが流行ったことがあった。別な表現としては10人10色といった言葉になるが、今日の消費を同じように表現するとすれば1人10色と言えよう。「一人ひとり異なる」から、更に一人の中に多くの色・好みを抱えた存在であるという意味だ。
私は数年前から「振り子消費」というキーワードを数多く使ってきたが、大きな価値潮流が振り子のように振れる様を表現したかったからである。洋のライフスタイルから和のライフスタイルへ、あるいはヘルシー系とガツン系との対比、今日と過去(昭和という時代)、新しさと古え、外と内、ハレとケ、豊かさと貧しさ、表通りと裏通り、更に広げればデジタルとアナログ・・・・・こうした振り子は極論ではあるが一人の顧客の中にあるということである。メーカーであれ、流通であれ、振り子のように振れるため、消費という欲望の輪郭を明確化できないでいる。

少し前に「分かりやすさの罠」というテーマでブログを書いたが、こうした振り子を提供者側が古いマーケティングの考えで勝手にどちらかであると決めつけてはならないという意味であった。そして、前回、どのように振り子が振れて消費移動し始めているかを読み感じとることが必要となっているかを書いた。例えば、ここ1年ほど前から、健康志向としてライト系と言われる「カロリーオフ」「糖質0」あるいは「××ライト」といった商品が数多く発売されてきた。一方、100円バーガーもさることながらガツン系のマクドナルドが伸長し、得盛りが話題になり、更に氷結ストロングがヒット商品となり、最近ではレトルトの「朝カレー」といったものまで発売されるようになった。

こうした振り子消費の中で注目すべきがデジタルとアナログである。分かりやすく表現するとデジタルをインターネット販売、アナログを対面・対話販売、あるいは商品として言うとデジタルを省時間型商品に代表されるスイッチだけの便利商品、アナログを土鍋のような調理道具のような手作りの楽しさ商品、と置き換えてもかまわない。(このテーマについては後日書いてみたい)
周知のようにネット通販は割安価格ということから順調に伸び、一方百貨店やスーパーは右肩下がりである。しかし、例えば2002年頃からお取り寄せサイトを構築したネット通販は顧客の囲い込みを行い、現時点でそれなりの売上を確保しているが、ここ1〜2年に参入した通販サイトは広告というランニングコストがかさみ経営としては今ひとつといった情況である。それはSNSが会員を伸ばし順調な広告収入を得てきた数年前とは異なり、広告収入によるビジネスモデルが破綻しかねない情況によく表れている。つまり、先行組と後発組とでは大きな差が生まれているということだ。一方、アナログである有店舗業態にあって、売上を伸ばしているのがネットスーパー部門である。ネットで注文し届けてくれる業態であるが、「デジタル×アナログ」によるサービス業態である。あるいは、百貨店においても売り場で商品を確認し、ネットで注文するといった在り方も徐々に増えている。つまり、顧客の側はデジタルとアナログをうまく使い分けしているということである。

新しい、珍しい、おもしろいを求めて「外」へと動き回っていた消費は、収入が増えないという事由によって「内」へ安近短へと向かう状態、これが「巣ごもり消費」である。こうした背景は、収入という経済的理由が一番であるが、もう一つが「情報に左右されてきたことへの反省・自戒」という学習結果によるものだ。特に、鮮度という名の下の賞味期限、ブランドという名の下の産地あるいは希少性の名の下の原材料など、夥しい情報偽装による学習体験が大きい。
消費への欲望は情報刺激によって行われる。市場が心理化されていると良く言われるが、「あるある大辞典」の納豆ダイエットの嘘の顛末を見ればよく分かる。このようにマスメディア自身による情報の信頼喪失は極めて大きい。更に、今まではマスメディアを通じた情報ガイドによって物を購入したり、サービスを受けていた。その情報はスピードを競うことから集中・過剰となり、軽さばかりが眼につくような奥行きの無いものとなっていく。結果、ネットの情報で十分こと足りることを実感してしまった。そして、生活者自らの体験が一番信頼できる情報であることへと向かったということだ。
今、混乱右往左往している政治であるが、伝えるべきマスメディアはその批判精神を失い、当事者である政治家の言葉と同じように信頼しえない情報となっていることは周知の通りである。先日のG7での大失態の報道はAP通信が全世界に報道した後、やっと日本のマスメディアも報道したというていたらくである。

今年の直木賞に天童荒太の「悼む人」が選ばれたが、マスメディアから流される過剰な情報の中で「何」が自分にとって必要で、大切な情報なのか、その疑念から「悼む人」が書かれたという。亡くなった人を訪ね、その死の扱われ方を聞くことによって自身の心変わりをテーマとした小説である。生前どのように生き切っていたかを探し求めた小説であるが、情報の持つ意味合いを考えさせる小説である。マスメディアから流される情報、いや流されない情報の裏側で「何」が起こっていたのかを気づかせてくれた小説であるが、実は生活者がこうした裏にある事実へと気づき手に入れ始めた時代と言えよう。裏にある何か、それは自らの想像力によってであるが、今や過剰な情報が行き交う時代であるが故に、情報の裏にある何かへと想像に向かわさせる。商品に対し、サービスに対し、更には企業に対し、顧客が想像力を働かせる時、つまり本当のプロしか生き残ることはできない。私たちがそのことに思い至らなければ、消費の輪郭は明らかにはならない。(続く)

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2009年2月 4日 (水)

不況であればこそ、熟成する生活文化

ヒット商品応援団日記No3378(毎週2回更新)  2009.2.4.

2年ほど前に、裏が表になり、表が裏になる、と書いたことがあった。表側の世界やメニュー等が一巡し、生活者の興味や好奇心は裏側に向かうという内容であった。観光や散策でいうと、表通りの名所旧跡観光から横丁・路地裏観光への変化であったり、食でいうとメニュー表に載ったものから賄いメニューや裏メニューがメインメニューになるといったことであった。5〜6年前一つのキーワードとなっていた「隠れ家」は死語になり、最早表も裏も無くなった。これも情報の時代ならではの変化である。勿論、単に裏にあるというだけの商品、単に知らなかっただけの商品、単にメディアに取り上げられただけの隠れ家、極論を言えば持続できるだけの商品力を持たないそれらは既に市場にはない。

ちょうど同じ時期に、「今、地方がおもしろい」というテーマで埋もれた銘品や名物、あるいは観光客が知らない名所が注目されるであろうという内容を書いたことがあった。このことも未知への興味・好奇心が情報によって触発され、「裏が表になり、表が裏になる」という理屈と同じである。
ところで、過去10数年の消費行動を見ていくと大きな潮流として、テーマ軸では「洋」に振れたライフスタイルからの「和」回帰であろう、場所・エリア軸では興味があればどんな遠くでも出かけたことからご近所・ホームグランド回帰(慣れ親しんだ場所への回帰/故郷を含む)、時間軸では昭和回帰(特に「Always三丁目の夕日」ではないが30年代)、人・人間関係軸では「私」に凝り固まった関係から家族の絆の取り戻しに見られるような家族回帰(場所でいうと家庭となる)、俯瞰的に見ればこのように整理することができる。

こうした回帰型消費は振り子のように戻る様をいうのだが、最終的には振り子は一点において停まる。例えば、テーマ軸でいうと数年前までの圧倒的な健康ブームに対し、2年ほど前から高カロリーのガツン系・特盛りブームが起きたように。あるいはアルコール飲料がソフト化していった傾向に対しアルコール度数の高い氷結ストロングに支持が集まったように、常に振り子のように変化するのが今日の「消費」であろう。誰もがこうした振り子の中心点を明らかにしたいと思っている。いわばロングセラー商品という企業にとってお金のなる木を作り出すことになるのだが、生活者が削ぎ落とし更に削ぎ落とすことによって生まれる次のライフスタイルが明らかになることでもある。

では、不況=節約志向、キーワードである「巣ごもり消費」という内に向かう興味や好奇心はどんな「内」となるであろうか。実は、裏側への興味・関心も、振り子のように振れる回帰行動も、全て情報によるものであった。「TVが消えてなくなる日」にも書いたが、既成メディアはその情報価値を相対的に失い、ブログのようなネットメディアへと情報移動が進んでいる。玉石混淆ではあるが、情報発信も受信も個人の側に移ってしまったということだ。生活という巣の内側では、こうした既成情報の削ぎ落としも行われていることを忘れてはならない。既成の情報を削ぎ落とすことから、何が生まれてくるか。それは自ら五感で感じ取った情報、体験情報であろう。巣の中では、自らの振り子体験や回帰体験を熟成させているということだ。

この1年半ほど土鍋などの調理道具を始めとした生活道具が売れていると書いてきた。繰り返し書かないが、その裏側にはこうした体験の熟成が行われてきたということだ。最近では若い世代でぬか漬けが静かなブームであるという。団塊世代以上のシア世代にとってはおふくろの味であるが、若い世代にとっては身体に良い根菜が取れる和風サラダとしである。まさにOLD NEW、古が新しいという良き事例であろう。先日、経済団体の幹事と話をする機会があったが、ネット通販で売れ始めた商品があるという。実は、「干し柿セット」で、生の柿と吊るす藁、それに作り方の説明書付きであるという。手作り干し柿ということであるが、椎茸もあてはまるし、日本古来からの醸造文化、熟成文化、あるいは塩乾物のような保存文化にOLD NEWがある。

ライフスタイルという言い方をすると、従来は情報刺激によって未知の新しさを追いかけていくといったフロー型であったのに対し、巣の中ではOLD NEWのようなストック掘り起こし型へと変化してきた。つまり、既成の情報に翻弄された10年でもあり、多くの学習もしてきた。結果、体験こそが納得・共感できる唯一の方法であると、多くの生活者が気づき始めたということだ。ユーザーからの投稿レシピ10万点を公開し、夕食の支度時間である午後4時にはアクセスがピークに達するクックパッドに多くの支持が集まるのもこうした背景からである。不況という無駄を削ぎ落とし節約するといった巣ごもり現象。こうした外側からは見えない巣の中で熟成が始まり、一つの生活文化へと発酵し始めたということだ。(続く)

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2008年12月21日 (日)

TVが消えてなくなる日

ヒット商品応援団日記No327(毎週2回更新)  2008.12.21.

テレビ朝日は、2009年3月期の業績予想を修正し、テレビ事業を手がける単体の営業損益は22億円の赤字、純損益は4億円の赤字になると発表した。TBSは、来年4月以降昼間4時間ブチ抜きの報道ワイド番組をスタートさせるという。それにともない、40年の歴史をもつ午後1時台の昼ドラも終了すると発表。広告収入が落ち込む中での、経費削減が番組編成を直撃したことによるものだ。既に、この傾向は数年前から始まっている。各TV局は、制作コスト削減のためにバラエティ番組や報道へのウエイトを高めてきた。バラエティ番組にはギャラの安いお笑い芸人やタレントを使い、報道番組はニュースの娯楽化と取材内容を繰り返し使うことによって、いわゆる経費削減を行ってきた訳である。しかし、テレビ朝日の決算予想に表れているように、広告収入に頼ったビジネスモデルは終焉を迎えようとしている。

こうしたマスメディアが相対的に情報価値を失ってきたのは、周知のインターネット上にGoogleが現れてきたことによる。インターネットという無料世界を身じかに使いやすくしたキラーコンテンツならぬ、キラーメディアと言えよう。オープンソースによって、研究者固有の知ですら公開共有され、使用される時代となった。多様な検索サイトが出現し、一番安い商品が選ばれるようになった。知においても、物においても、デフレを加速させた。この手法を駆使したのが価格破壊を行ってきた企業群である。最近では北海道に本社を置く、家具やインテリア商品などを激安で製造販売するニトリなんかが該当する。世界中から一番安い素材を調達し、ベトナムの工場に集め加工し製品化するといった具合のビジネスである。つまり、デフレという低価格のみならず、仕事すら国内から無くなる時代である。

民放TV局の収入のほとんだは広告で、それはどれだけ視聴率を得たかによって収益が左右される。広告はGRP(グロスレイティングポイント)という視聴率の単位で売買され、そのTV局とスポンサーとの仲介役が広告代理店である。1990年代半ばから、スポンサーは効率よく視聴率を得るために広告代理店に対し、入札のようなコンペを行うようになる。この価格競争は激化し、多くの広告代理店が統合合併されることになる。
こうした視聴率至上主義による価格競争はTV局間、広告代理店間だけでなく、他のメディア、特にネットメディアとの競争によって、いわばデフレ状態に陥ることとなる。こうして、TV局は経費削減のために番組の品質を落とし続け、負のスパイラル状態となり今日に至るのである。

既に、情報発信メディアは顧客の側に移っている。こうしたブログもそうであり、YouTubeにも多様な動画情報が集まっている。日本においても「勝手広告」が始まっているが、米国では素人ビデオCMが人気だ。既に一元的価値時代から、多様な多元的価値時代へと移っている。つまり、多元的情報を必要としているということだ。
そもそもマス広告に意味があったのは、日本がモノ不足であった時代だ。不足を商品で埋めていくには広告が必要であった。モノは大量に生産され、広告という手法によって伝えられ販売され、顧客は生活の中に取り入れていた時代である。そうしたモノが満たされた今日、好みは多様になり、マス広告では市場創造できないことは最早自明である。こうしたマス広告収入を経営の基盤に置くビジネスモデルはますます成立しなくなるということだ。
小売業で唯一売上を伸ばしているのは周知の通販である。例えば、TV通販専門チャンネルのジュピターショップチャンネルは1000億を超え、今流行の「わけあり商品」以上にわけありを分かりやすく五感で伝えている。TV番組に挿入されるCMのような分断された伝え方とは全く異なる。どちらが売上に結びつくか明白である。

ところで日経MJの2008年ヒット商品番付にも入っているNHKの大河ドラマ「篤姫」は平均視聴率は24%である。民放と単純比較はできないが、ドラマとしての完成度は比較にならないほど高い。番組は商品であり、コンテンツこそ独自な商品でなければならない。ここ1年ほど、どのチャンネルを回してもクイズ番組ばかりで、しかも同じような一発芸人やタレントが並ぶ。まるで金太郎飴のような番組ばかりである。しかも、「クイズの答えはCMの後で」といったあざといやり方には辟易する。結果、TVを見たいと思うような視聴者はどんどん少なくなっていく。

「プロの逆襲」のところでも書いたが、もし生き残ることができるとすればテレビとは何であったかを今一度考えることから始めなければならない。視聴スタイルは家族・世帯単位から、個人へと変わってきた。情報発信メディアも多様な選択肢を個人が持ち、しかも自ら発信できる時代である。しかし、正確なデータによるものではないが、誰もがTVに釘付けになった番組はある。世界一を決めたWBCでの日本チーム、特にイチローの気迫。北京オリンピックソフトボールの決勝戦、あの「上野の413球」である。報道においても古くはなるが、あの阪神淡路大震災の時のヘリコプターから映し出される延焼し続ける火災の情景は今なお記憶に残っていることだろう。
今、音楽業界が低迷していると言われている。確かに大きなヒット曲もなく、CD売上は年々下がっている。アルバムを買うのではなく、好きな曲だけを安くダウンロードできる時代だ。しかし、クラシックからJPOPまでライブコンサートには多くのフアンが押し寄せている。何故か、そこにはリアリティ、臨場感、その場その時の空気感、そんな五感を震えさせてくれるものが求められているからだ。テレビの原点とは、こうした五感に訴えてくるコンテンツであった筈だ。この原点に戻りえなくなった時、TVは消えてなくなる。(続く)

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2008年12月10日 (水)

2008年ヒット商品を読み解く(2) 

ヒット商品応援団日記No324(毎週2回更新)  2008.12.10.

前回社会的注目を集め実績を残したヒット商品、その裏側に潜む価値潮流について4つキーワード化してみた。今回は目まぐるしく変化する消費、特に数年前ヒットした価値潮流はどのように変化したのか、あるいは消滅してしまったのか、誰もが「何故」と思うことを中心に読み解いてみたい。

5、振り子消費からの脱却
2008年はダイエット・健康・美容という大きな潮流にヒット商品が生まれていない。勿論、誰もが関心は今なお持っているが、寒天ダイエットから始まり、現在はバナナダイエットであるが、最早バナナも終わってしまっている。同じようにコエンザイムQ10ブームは数年前に終わり、現在はコラーゲンやヒエルロンサンブームで、これもまもなく終わるであろう。ダイエットにおいては「レコードダイエット」に代表されるように、ダイエット商品に依存するダイエットではなく、自身の意識を変えることによるものへと変化してきている。
健康志向においては社会的な注目を浴びてはいないが、ウオーキングブームは今なお続いており、その延長線上にハイキングや散歩ブームがある。また、小さな子供の情操教育を含めたハワイアンダンスはすっかり定着し、シニアにおいても社交ダンスが普及し、こうしたフアンの中から生まれたのが、歌手の団塊の星秋元順子である。
一方、昨年からの特盛り、デカ盛り、ガツン系といわれた高カロリー食の復活は、11/末関東地域に発売されたマクドナルドのクオーターパウンドのように今年も続いている。勿論、学生や若いサラリーマンが主対象であるが、ホテルを始め多くの飲食店で食べ放題やブッフェスタイルへと広がりを見せ、その割安感の支持は定着しつつある。今回のヒット商品番付の中に、キリンビールのアルコール度数の高い「氷結ストラング」が入っているが、従来のソフトアルコール時代に対する振り子消費によるもので、いわばガツン系アルコール飲料と言えよう。
さてこうした消費傾向をどう読むかである。個々人がそれぞれのダイエットや健康への自己認識を持つようになった。あるいは原点に戻った、と。つまり、情報によって振り子のように消費していたことへの見直し、いわば情報依存型からの脱却を生活者は始めたと言うことであろう。

6、あれこれRE(再生)アイディア、使用価値の最大化
テーマとしては提供者にとっては保有資源の再生・最大化であるが、顧客の側も選択肢の広がりと無駄への理解が、相互にかみ合った新しいメニュー業態が生まれてきた。飲食においてはファミレスを始め、時間帯顧客向けとして特に朝食メニューの充実が計られ2毛作、3毛作は当たり前となった。そうした丁寧なMDは、カラオケルームにおけるアイドルタイムの会議室活用、レンタルオフィスシェアリング、更にはカーシェアリングへと広がり、最近では、ブランドバッグのレンタルまで注目されるようになった。こうした傾向は所有価値から使用価値への転換であり、その使用価値を最大化させるものとしてある。企業間でも、「共同仕入れ」「共同開発」「共同物流」「共同販売」といったコラボレーションは最早当たり前のこととなった。
空き室、空きビル、空き地、空き施設、空き時間、使われないブランド商品、使われない車や道具類、・・・・もったいない精神による用途変更や目的変更、新しい目的の付加、転用といった従来視点を変えることによる新しい価値の創造、「生かし切るアイディア」の現場経営は垣根を超えて始まっている。このビジネスの先駆者は高級ホテル・旅館の空き部屋を安く提供している周知の一休である。売れない新築マンションを安く買い取り、再販する業者も既に活動している。スクラップされた郊外型飲食施設を居抜きで契約し、飲食のディスカウント業態で急成長している事業者も出てきた。少し視野を広げれば、今回番付に入っている福助の「柄タイツ」なんかは、オシャレしたいが服を買うにはチャット手が届かない女性への「ファッショントレンド代替商品」である。これらはいわば変化に伴うニッチ市場であるが、不況期には思わぬヒット商品が生まれる。

7、流通サービスの再編
周知の通り、日本の流通で今なお成長しているのがネットを筆頭にした通販ビジネスである。逆に右肩下がりの筆頭は百貨店を始めとした有店舗流通である。店舗で実物商品を見てから、ネット通販で注文することは至極当たり前のことになっており、そうした背景には価格が安いという理由があってのことだ。都市部においては大手スーパーが続々とネットスーパーに力を入れ始めている。IT技術の急速な浸透がデフレを引き起こしたと言われているが、有店舗の意味合い、ビジネスモデルが根底から検討せざるを得なくなっているということだ。
一方こうした中でユニークな経営、新しい流通サービスを行っている企業がある。鹿児島県阿久根市にあるスーパーAZである。人口2万4000人という過疎地にある巨大スーパーで生鮮食料品を始め、車の販売、GS、コンビニ、更には仏壇まであらゆるものが激安で売られている。このスーパーの特徴は、高齢者に対しては消費税分5%のキャッシュバック、片道100円のお買い物バスの運行、更には地産地消は言うに及ばず地元の高齢者が従業員、そして24時間営業という単なる効率を第一義とした業態とは正反対のビジネスである。そして、なんと年間集客数は650万人に及ぶという。初期のホームセンター「ジョイフル本田」や書籍の「ジュンク堂書店」と同じ考え方の経営、業態である。
過剰な物と共に過剰な流通にあって、スーパーAZは流通におけるサービス業態、過疎地でのライフセンターとしての役割を果たしており、一つのビジネスモデルと言えよう。
問われているのは従来の流通の過剰であり、顧客が変われば流通もまた変わるという原則に立ち帰るということだ。

ところで、残念ながら医療や年金など既に起こっている「未来」不安に加え、「今」起こりつつある雇用不安が社会不安へと拡大しつつある。既にその予兆は秋葉原殺傷事件のように出てきている。恐らく、根も葉もない風評被害も出てくるであろう。こうした時代には、元気、明るさ、チョット笑える、ホットする、心理面ではこうした小さな幸せ物語が求められる。そして、このぐらいなら手が届くという小さな価格が不可欠となる時代だ。(続く)

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2008年12月 3日 (水)

触る時代へ 

ヒット商品応援団日記No322(毎週2回更新)  2008.12.3.

2008年新語・流行語大賞が決まったが、過剰情報の時代を良く表している。「グ〜!」は既に鮮度を失って使われなくなっており、「アラフォー」は特定の世界、世代や雑誌業界で流行った言葉である。40歳前後の女性の頑張り、明るさが暗い時代に一筋の光を与えてくれている、といったコメントが出されていたが、そうではない。この2つの流行語に共通していることがあるとすれば、それは言葉の軽さであり、浸透は速いが瞬時に忘れ去られるということだ。情報過剰の時代とは、いわば供給過剰、言葉のデフレ時代のことである。広告的言い方をすると、キャッチコピーだけで、人の興味・関心は惹きつけるが、それ以上でも以下でもない。

一年半ほど前に「五感の取り戻し」というテーマで、便利さと引き換えに視覚と聴覚の感知能力が失われていると書いたことがあった。都市における過剰な光、そして過剰な音に囲まれた生活から、本来の自然の光や音を取り戻す動きについてであった。ところで視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感のうち、最も不可欠な感知機能は触覚であると指摘していたのはコラムニスト天野祐吉さんであった。「握手しても何も感じない。つねられても、ちっとも痛くない。好きな人と抱き合っても、なんの感触もない。やだよ、そんなの。」(「言葉の元気学」より)猿の毛づくろいを例に挙げ、人間はその毛づくろいという触覚コミュニケーションが言葉になった、と。つまり、言葉でさわりあう、つながりあう、という訳である。言葉も触覚のうちであると私も思うが、さわりあう、つながりあう、という基本の感覚が今一番求められていると思う。

ところで、この感覚をビジネスあるいはマーケティングに落とし込んだらどうなるであろうか。意識するしないに関わらず、既にヒット商品の多くは、さわりあう、つながりあう感覚によるものが多い。今なおブームが続く家庭菜園や田舎暮らしの農業も身体で自然とさわりあうことである。土に触れ、陽を浴び、水をやり、育てるとは自然とさわりあうということだ。あるいは、一昨年注目されたキッザニアにおける体験学習も社会とさわりあう、つながりあうことを模擬的に行うテーマパークである。キッザニアの優れた点は、単なる体験学習ではない。そこには労働の対価としての模擬通貨による経済社会の在り方にさわり、つながる感覚の学習である。
最近の傾向の一つである外食から内食への流れとして、今年も鍋は人気で、昨年はカレー鍋であったが、今年はご当地鍋として深化していくと思う。鍋を囲むとは、鍋でさわりあう、つながりあう食である。昨年のヒット商品で今なおヒットしている任天堂DSのwiiはバーチャルゲームに「さわる」感覚を取り入れたゲームソフトである。つまり、さわることのないバーチャル化した過剰世界から、個人の触覚を取り戻したということだ。

顧客接点であるビジネス現場ではこれからどういうことが大切になるであろうか。その前に、既に起こっている価格の「わけあり」について、認識しなければならない。今、円高による商品は流通が還元セールによって安く提供しているし、おそらくかなりの期間円高は進みデフレ傾向が進むと思う。勿論、円高といっても小麦価格のように、安くなるにはタイムラグはある。つまり、全体としてはデフレが更に進むと思うが、商品によっては価格の高いものも出てくる。こうした急激な変化を、どう提供者も消費者も「さわること」が出来るかという課題である。つまり、「わけあり」情報をどのように「さわれる言葉」として伝えていくかだ。
ところで、言葉でさわりあうとは、あいさつであり、対話ということになる。互いにさわりあう「あいさつ」とはどういうことであるか。過剰となっているテクニカルなあいさつではない。体験学習を積んだ顧客は最早だまされることはない。ましてや「自己防衛」として内に防波堤を築いている顧客である。

私自身正解はないと思うが、唯一近い解があるとすれば「生身の言葉」「自身の言葉」ということになる。少し前書いた「プロの逆襲」のところでも触れたが、プロの仕事は見えないところ、特に基本を十分踏まえた仕事であると。何か十数年前までは至極当たり前の修行の原則のようなことを書いたが、表現する術を持っているように思ってきたが、実は持ってはいなかったということだ。チェーンビジネスが苦戦している理由の一つがマニュアルである。商品品質、サービス品質の標準化のためであるが、マニュアルを伏せて、まずは生身の身体で言葉で顧客と向き合ってみることだ。

私が若い頃外資系広告会社に在籍していた時の話であるが、マクドナルドを担当していた同僚とあることをしにマックの店舗をチェックしに行ったことがあった。初期の頃のマクドナルドであるが、ある意味創業者であった故藤田田社長からの依頼で、マニュアルにはないことを店頭でオーダーしチェックして欲しいという内容であった。私はビッグマックを頼んだ際、「マスタードをつけてね」と、マニュアルにはないことをオーダーした。店頭にいた若いクルーは慌ててバックヤードにいた店長に聞きにいったことを今でも覚えている。(続く)

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2008年11月30日 (日)

言葉を取り戻す

ヒット商品応援団日記No321(毎週2回更新)  2008.11.30.

この2年ほど多くの過剰を削ぎ落とし、更に削ぎ落としそれでもなお残るものが求められていると、そこにビジネス着眼しなければと書いてきた。前回のもったいない着眼もそうした文脈の中からであった。この十数年、手に入れた豊かさは知らず知らずの内に実は過剰へと向かっていた。そんなことへの見直しが企業ばかりか生活においても始まった。過剰を削ぎ落とし、手に入れた便利さという豊かさとは逆に、失ってしまった何かを探しに多くの回帰現象が生まれてきた。例えば、象徴的に言うと、中国冷凍餃子事件は原点である食の安全への追求であり、家庭菜園のような自給自足的ライフスタイルに向かわせたり、顔の見える農家直売所へと向かわせてきた。それらは外食から内食への回帰として、土鍋や調理器具が売れるようになった。更には、子と一緒に料理を作る道具類、パン焼き器などはヒット商品となったが、一種の家族回帰・家庭内回帰と読み解くことができる。

さて、膨大な量の情報が行き交う中で、この過剰さをどう削ぎ落としたら良いのであろうか。また、情報においても回帰現象が現出するのであろうか。ところで雑誌プレーボーイが今週号を最後に廃刊になる。以前から多くの雑誌の廃刊が続くが、最早情報の送り手が雑誌社の編集者から、受け手である顧客の側へと移っている。その一番の要因はインターネットであり、ブログやyouyubeのように個人放送局化したことによる。勿論、真偽の見極めが難しい、しかも玉石混淆の情報であるが、使い方を間違わなければ十分情報源としての役割を果たしている。

こうした雑誌のなかで、唯一部数をのばしているのが、宝島社が発刊する「インレッド」などの雑誌である。周知のブランドとコラボレーションした「付録付き」女性誌であるが、その付録の新しさに興味を惹かれ雑誌が買われるという構造だ。しかも、デフレ市場となっている市場情況に合わせ、唯一値下げをしている雑誌である。つまり、従来の雑誌販売収入と広告収入によるビジネスモデルとは全く異なる商品発想をしているということだ。極論を言えば、コンテンツである情報を販売するのではなく、物販商品を付録付きで販売しているようなものである。1980年代半ば、チョコを捨てて付録のカード集めで社会問題化し、メガヒットしたビックリマンチョコを想起させるような発想である。もう一つ着実に部数を維持しているのが、「鉄道フアン」のような趣味の雑誌である。ある意味では、専門雑誌というより、超専門、マニアックな雑誌で、従来の専門雑誌の情報は既に一般情報化してしまったということだ。

話は変わるが、少し前に「日本語が亡びるとき」(水村美苗著:筑摩書房刊)を読んだ。英語が地球の共通語になった時代にあって、豊かな近代文学を育ててきた日本語が亡びつつあるという、言葉に生きる作家らしい本格的な警鐘の評論である。著者は創作の傍ら米国のプリンストン大学で日本の近代文学を教えているいわばバイリンガルの人である。であればこそ、母国語・日本語への思いは深い。繰り返し繰り返し国語教育の必要を説いている。示唆深い本であり、是非読まれたらと思う。ちょうど同じように西洋文化の衝撃を受け止めた夏目漱石と社会学者であるマックス・ウェーバーをヒントに、この時代の生き方を書いた「悩む力」(姜尚中著:集英社)も売れている。少し前から、太宰治をはじめ古典といわれる文学書が静かなブームとなっているが、悩むという内省、内なるこころに立ち戻る傾向が出始めていると言えよう。

インターネットが象徴しているように情報技術は驚くほど急速に発展し、地球は小さくなり、同時代性、同地域性という世界が、経済ばかりか知的情報の世界まで拡大した。図式化すると、世界の共通語=英語、国語、地域語=方言という3つの言葉を生きている。
ジャーナリスト筑紫哲也さんが亡くなられた時、天野祐吉さんは「ニュースに声を与えてくれた人」と語っていた。同時に、膨大な情報を整理し、防波堤の役割を果たしてくれていたと思う。多事という情報を争論できるようにしてくれた訳である。言葉は声であり、また文字である。前者の象徴が筑紫さんであり、後者が日本語が亡んでいくと指摘してくれた水村氏であろう。

私は沖縄が好きで頻繁に行くようになった一つの理由が沖縄の文化への興味・関心であった。今、沖縄では三線を使った琉球方言の学習が始まっていたり、古くから伝承されている民話を絵本にし、しかも絵本を読み聞かせるライブも始まっている。亡びつつある琉球文化に文字と声を与えようという試みであろう。足下に埋もれた豊かな情報を掘り起こすということも内省の一つである。今年の6月にはアイヌ民族を先住民族とする国会決議があったが、これからアイヌ文化の掘り起こしが始まり、文字と声を与える動きも始まるであろう。
膨大な情報と私は書いたが、類似化した一般情報による過剰体験から、生活者一人ひとりは内なる情報防波堤を築き、本来の言葉を取り戻しつつあると思う。勿論、情報においても自己防衛的になっているということだ。ビジネス視点からいうと、既存メディアの在り方が根底から変わることを促されているということである。広告、ショップ、商品、人、店頭、プロモーション、インターネット、メール、携帯電話、あらゆる情報発信するメディアの変容が促されていくであろう。(続く)

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2008年11月 2日 (日)

非レバレッジの世界へ

ヒット商品応援団日記No313(毎週2回更新)  2008.11.2.

前回「物見遊山」という江戸の思想についてふれたが、単に人生を楽しむといったことではない。「物見」という、苦労もあれば喜びも悲しみある実体験を通した、それ自体を楽しむ思想のことである。確か昨年末のブログで、不況は既に始まっている、と私は指摘した。それは、いざなぎ景気を超えたと言われ、景気については心配ないと多くの経済アナリストがまだ語っていた時期である。しかし、地方を歩いて実感したのだが、東京で感じる「地方の疲弊」と地方に行って感じることとの間には大きな落差がある。鳥取や沖縄に行って感じることは、例えばシャッター通り化した商店街とメディアはいうが、人の声すら聞こえない澱んだ空気の通りを歩いてみて初めて分かることがある。
鳥取では人口流出が止まらず、60万人を割ってしまっているが、結論から言えば働きたくても「仕事が無い」という状態だ。沖縄では観光客で溢れる那覇の国際通りを少し入ったところにある破綻したダイエーは、その後の計画は頓挫し閉鎖されたまま放置されている。今まで見たことが無かったホームレスもここ1年ほど前から頻繁に見るようになった。他にも多くの「物見」があるが、東京で接するメディアからの情報がいかに違っているかということだ。

私は今回の金融危機の原因は、突き詰めれば「証券化」と「レバレッジ」にあると書いたが、金融という枠を広げても多くの問題点にあてはまる。証券化という商品開発については後日書くつもりであるが、今回はレバレッジについて私見を書いてみたい。レバレッジはテコの原理と同じであるが、もっと平易にその意味合いを広げると、「少ない労力で、大きな成果を上げる」ということであろう。労力をお金に変えても、時間に変えてもかまわない。ある意味、極限まで「楽して儲ける方法」として生まれたのが金融工学であり、その方法を力として世界中のお金を集めたのが米英の金融資本ということだ。
金融破綻というレバレッジ体験は、影響の大小はあるが、米国内にとどまらず全世界に、政治経済のみならず、生活の中にまで大きな変化をもたらす。勿論、懲りない人達はいて、新金融工学なるものを編み出す人達も出てくる。私のテーマは金融ではないので分からないことも多く、ここでは日本の生活にどんな変化をもたらすか、既に始まっているかを指摘をしてみたい。

今、生活不況の対策として「節約術」が盛んであるが、これはこれでライフスタイルとして必要な知恵となる。総務省の家計調査を見るまでもないが、9月の家計収入は前年同月比マイナスである。今年の冬のボーナスは予測通りマイナスとなる。ところで既にその予兆として出ているのが、支出を抑えると共に、「労力」を逆に使って楽しむ「手作り」への潮流である。「食」については安全・安心を背景に、既にヒット商品となっている家庭菜園と共にベランダ菜園からパン調理器といった具合である。自家製パンなどは素材である小麦粉は30〜40種類、発酵させる酵母などは20種類ほど用意されている。外食から中食へ、そして内食へという大きな潮流は内食そのものを楽しむことへと向かっている。自分で作る味、既に失ってしまった「おふくろの味」を作ることでもある。一見直接的なつながりはないように見えるが、レバレッジという見えない世界の苦い体験は、手作りという見える体験実感へとつながっている。消費という視点に立てば、既に作られた外食や中食からの食メニュー変化として、素材のバリエーションと共に、作る「道具」が売れ、道具をどのように使うかという「方法」(=レシピ等)が売れるということだ。もう少し着眼点を広げると、完成品ではなく、半完成品、半加工品、といった手を加えることが出来る商品が売れていくということである。また、中国製餃子事件以降、冷凍食品が急激に売り上げを落とした。夫婦共稼ぎの場合、手作りという手間のかかる料理はどうかというと、ある程度の量をまとめて手作りをし冷凍保存するような方法が採られている。結果、冷蔵庫は冷凍庫だけでなく、味を保つ「急速冷凍庫」なんかの新機能は標準装備となるであろう。

ここ数年消費の底流となっている長く使える商品、ロングライフ商品というお気に入りには一定の支出をするであろう。更に、こうしたお気に入り商品を更に長く使うための修繕サービス、リフォームサービスも盛んになる。情報や流行に流されないデザインを追い求め、売り、伝えていくことこそがブランディングであると行動するナガオカケンメイ氏なんかがその代表であろう。最近注目されている森陰大介氏によるモリカゲシャツも同じ価値観である。京都を基盤に、メンズシャツを世界へと販売。汚れたり、色あせて着なくなった服を藍(あい)染めで染めかえるエコデザインプロジェクト「ebebe/エベベ」をスタートさせている。売って終わりのビジネスではなく、売ることから始まるビジネスということだ。
1990年代から言われてきた「豊かさ」とは何か、数年前から盛んに言われてきた「上質」な生活とは何か、に一つの答えを見出し始めていると思う。キーワードとして言うならば、顧客を「ホームライフクリエーター」として見ていくということだ。

レバレッジとは目的地に向かって走る高速道路のようなものである。IT技術によって、誰もが高速道路に上がることが出来るようになった。ところが、目的地の少し前で大渋滞に出会ったようなもので、一般道に降りようにも降り口が見当たらない、というのが現在であろう。渋滞の中にあって、ルール違反者も当然出てきた。しかし、少し前までは一般道を走り、回りの景色を楽しんでいたことを思い起こせば良いのだ。以前、ライブドア事件に関し、ホリエモンについて「二十歳の老人」という喩えでブログを書いたことがあった。情報的には多くの体験を積み、まるで老人の如くであるが、実体験、リアル体験のない二十歳にとって大きな落とし穴があった。生き急いではならない、という指摘であった。今、沖縄で小さな勉強会、塾を開いているが、その参加者の一人に「ゆらり号」という車を使った移動カフェを起業した「ゆらりのマスター」がいる。人物もそうであるが、穏やかで、ほっとするなごみのカフェである。まさにレバレッジとは正反対に位置した等身大のビジネスである。人物の成長とともに、ビジネスも必ず成長する。(続く)

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2008年6月25日 (水)

ランキングと格付け

ヒット商品応援団日記No277(毎週2回更新)  2008.6.25.

過剰な情報が行き交う世界にあって、どの情報を信用し使うことが一番目的にかなっているか、見極めることが難しい時代である。こうした中、判断する情報の一つがランキングや格付けだ。企業経営の各種情報から、就職先ブランドランキングや病院の格付け、あるいは好きなタレントランキングに至まで、あらゆる分野でランキングや格付けが行われている。そして、それらは全て情報としてある。情報と現実、情報と実体、これらの乖離が大きくなる時、競争を背景に偽装が生まれる。
このブログでもたびたび取り上げてきた偽装事件の多くは「情報偽装」で、内部告発がなければ今なお情報を信用し食べ続け、使い続けているであろう。偽装情報を食べていると言ってしまうこともできる。そして、ミートホープ社に続き、またしても飛騨牛の等級という格付け偽装疑惑が起きた。

江戸時代にもランキングが盛んで、大相撲の番付から、今でいう長者番付やミスコンのような花魁ランキングなんかも行われていた。ランキングには大きくは2種類あって、スタンダード・アンド・プワーズのような信頼の置ける格付けもなされていた。長者番付なんかの行事のところに「金比羅」とか「春日神社」等と書かれており、寄進先における寄進額のランキングに基づいた長者番付であることがわかるようになっていた。こうした一応格付けの理由を明らかにしたランキングには学者や絵師があった。もう一種類のランキングが趣味や仲間内の洒落で行う遊びとしてのランキングである。「ミシュランガイド東京2008」が発表されたが、周知のように既に「美味しいラーメン100選」とか、「行ってみたい隠れ宿」といった具合に、無数のガイド本やサイトが存在している。

先日、「本屋大賞」についてのTV番組を見て、そうだろうな思った。本好きのために読んでもらいたいと願って創った本屋さんが選んだ「本屋大賞」についてである。面白いことに、本屋さんが選んだランキング1位はそこそこ売れたが、2位以下はあまり売れない結果となったとのこと。しかも、オリコンが調査したところ、こうしたランキングをものさしとした購買層は年間わずか数冊しか買わない顧客であった。いわゆる本好きのリピーター顧客はランキングなど当てにしていないという結果だ。つまり、ランキング情報=話題となっているようだから、取り敢えず一度は読んでみよう、使ってみよう、食べてみようということである。結果、ランキング1位だけに集中することとなる。商品のライフサイクルが短くなった、一過的といわれる理由の一つで、情報消費市場の特徴だ。

それでもマーケッターは1位のみを目指し、多くの投資を行う。本という商品であれば、1冊1500〜2000円といったハードカバーではなく、買いやすい1000円未満の新書判となる。老舗飲食店では、夜の顧客が総体的に少なくなり、昼のランチに格安のメニューを出し、夜の顧客増につなげようとする商売が盛んである。結果、東京ではエリア1位を目指したランチ激戦区となる。話題づくりマーケティング、情報業態ビジネス、これが都市市場の最大特徴である。以前は雑誌などを使った話題づくりのPR投資が中心であったが、昨年あたりからはエニグモに代表されるブログを使った口コミマーケティングが盛んだ。

ところで鬱屈した時代の雰囲気の中、ランキングNO1になるために熾烈な競争を繰り広げる都市市場であるが、同じランキングをするなら洒落っ気たっぷりでユーモア溢れるものが必要と思っている。江戸時代の東京は世界NO1の120万都市でほとんどの人間は地方出身者で占められ、方言が飛び交う一種インターナショナルな都市であった。世界で唯一流れる上水道が整備され、長屋には季節の花々が咲き乱れた文明と文化が共に発展した世界でも類を見ない都市であった。その江戸庶民は勝手にランキングをして楽しんでいた。「うそまこと見立角力」といった、「うそランキング」や「まことランキング」もあった。洒落の極致が「屁(へ)番付」で、「梯子(はしご)屁」というのは梯子を上ったり降りたりするように音階のある屁で、最低ランクには「すか屁」が置かれていたようだ。

ネット上には「勝手広告」ならぬ「勝手ランキング」も盛んである。そのほとんどが直接商品に関わるものばかりであるが、それはそれとして洒落たランキングを見たいものである。例えば、「素人芝居ランキング」のNO1はやはり船場吉兆のささやき女将、NO2は最近話題のお風呂の無い谷本整形外科院長、・・・・センスのない事例で申し訳ないが、くすっと笑えるユーモアのあるランキングサイトがあったら是非御教え願いたい。1万円札を模した入浴剤がヒットする時代である。うそをわかって、チョット笑える。そんな商品が売れる時代だ。(続く)

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2008年6月 4日 (水)

パーソナルブランドの時代

ヒット商品応援団日記No271(毎週2回更新)  2008.6.4.

前回ブランド効果が衰退していった背景について、中流の崩壊と個性化の進展という2つの要因を挙げた。この点についてもう少し言及してみたい。
中流の崩壊については、「勝ち組・負け組」論議や格差問題、あるいは市場の2極化といった文脈の中で多くが語られてきた。この中で最も注視しなければならないことは、中流市場(≒百貨店顧客)がブランドを支えてきたということである。高級インポートブランドはもとより、多くのブランドは、中流市場の「憧れ」がブランド価値を創ってきたといっても過言ではない。この「憧れ」を期待値といってもかまわない。多くのブランドは「違い」を固有の世界として確立するために、百貨店の中の売り場ですら、路面店の如きショップを創ってきたのである。

この中流市場の崩壊は、1998年以降の経済、下がり続ける所得という課題を背景に、未来への漠然とした「不安」という心理世界が衰退を加速させる。情報の時代の特徴であるが、マスメディアから流される少年犯罪や年金といったさまざまな不安情報は、それが「重要さ」と「曖昧さ」が大きければ大きいほど「うわさ」になりやすい。この「うわさの法則」通り、期待や憧れといった心理は急速に漠とした「不安」へと向かっていく。時代の寵児「ホリエモン」、あるいは新しい日本版セレブ・ヒルズ族といって話題に持ち上げたマスメディアは、今はどうであろうか。潮目が変わった、顧客の関心事が変わったといってしまえば終わりであるが、昨年来の偽装事件報道を含め、過剰な不安情報はブランド衰退の遠因の一つになっている。

もう一つの個性化の進展であるが、言葉を変えて言うと、主体が個人、個客の側に移ったということである。消費のプロはその学習体験の積み重ねにより、生半可なブランドはその本質を見抜いてしまうまで成長していく。そして、いつしか単なる消費から、自らコーディネートしたり、プロデュースするといった創造の側へと成熟していく。これがプロ顧客と呼ばれているものである。ちょうどインターネット上の個人放送局であるブログがマスメディアに代わって情報の発信者になったのと同じである。主客逆転、表が裏になり、裏が表になった時代である。表現主体が個人の側に移ったということだ。

十人十色とよく言うが、今や一人十色となった。色づけするのは個人である。だから、住まいから被服まで色づけしやすいようにシンプルなものが好まれ、大きな潮流となった。勝手にデザインするな、私がデザイナーということだ。ブランド名は忘れたが銀座プランタンでは、従来のサイズより更に細かなサイズを用意したところ売上が急成長したと報道されていたが至極当たり前のことである。既製服ですら、どんどんセミオーダー化してきたということだ。
こうしたモノ販売より前に、サービス業において一人十色は進行している。例えば、海外旅行などは良き事例である。1980年代ぐらいまでは、パック旅行が中心で観光プログラムがしっかり組まれていた。しかし、行きたくもない所に連れて行かれ、買いたくもない土産物を買わされることを繰り返し、そんな旅行は行きたくないと考える顧客が増える。今や行き帰りの航空便とホテルを決める位でフリープランが主流である。

さてブランドの今はどうかということであるが、ブランドという考え方、ブランディングが不必要になったということではない。ブランドは小さな市場単位として拡散した。ある意味、ブランドに過剰な期待をしてはならないということだ。今、百貨店に導入されているブランドを見ても、ほとんど知られていないイタリアの田舎町の職人が作るバッグや靴であったり、無名に近いオランダのデザイナーであったり、パーソナルブランドといっても良い位の小さなブランドばかりである。ブランドも大量生産大量販売という時代を終え、個人が作り、その範囲内で個人が買う時代になったということだ。個人の考えや思いが作る商品を通して語られ、それが一つ普遍性として波及していくことによって文化価値が生まれる。それを人はその表現を臭いといったり、どこか違った雰囲気といったりするが、受け手である顧客が創っていくのが文化だと思う。そうした個人文化・パーソナルブランドの時代を迎えている。(続く)

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2008年5月25日 (日)

精神的コスプレ時代

ヒット商品応援団日記No268(毎週2回更新)  2008.5.25.

奈良県の「平城遷都1300年祭」のキャラクター・せんとくんを始め、街起こしからイベントまで全国至る所にキャラクターが氾濫している。その多くは単なるシンボルマークといった記号の意味合いだけであるが、本来はディズニーのミッキーマウスやゲゲゲの鬼太郎のようにアニメや漫画の作中人物のことを指した言葉であった。つまり、一つの人格をもったものとして使われる言葉である。情報の時代は、この人格を好きなように創る遊びが盛んである。周知のアバダーがそうであるが、ブログやオンラインゲームあるいはセカンドライフなどでハンドルネームと共に使われている。変身願望と言ってしまえばそれで終わりであるが、インターネット上ではいとも簡単に多重人格的ないくつもの「私」を手に入れる、いや虚構世界を生きることができる。(オンラインゲームでのアバターと現実ユーザーとの比較が出ていたのでご覧いただきたい。Gigazine/http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20070621_netgame_avatar_player/

私はよく市場は「心理化」しているとこのブログでも書いているが、心理化とは情報によって購買の決定要因に心理的「何か」が深くかかわっているということである。誰も分析していないのでなんとも言えないが、不況期にはこうしたキャラクターが出現し、広く流布するという専門家もいる。1970年代の第一次オイルショック後の不況期にはあのキティちゃんが生まれ、この平成不況期にもキャラクターブームが起こるというものだ。つまり、不況という不安心理を背景にした個人化の進行。つまり、バラバラになった「私」、そう感じている「私」の逃避先=変身先がキャラクターであるという説である。勿論、変身先とは仮想現実、虚構の世界である。そして、既に始まっていると指摘する人もいる。

今、出版業界で唯一好況なのが中高生を対象としたライトノベルである。周知の元祖的存在である「スレイヤーズ!」(神坂一/かみさかはじめ)は、累計販売部数は1200万部とも1500万部とも言われている。内容は一言でいうと、中世ヨーロッパを基調とした仮想の物語で魔族と神々が抗争するファンタジー世界を描いたものだ。大人の私たちにとっては、「なんのことか?」と理解不可能とはいわないが、異質な世界観で創られた物語である。この「スレイヤーズ!」がそうであるかどうかは分からないが、細かく分解された物語の要素はデータベース化されており、この組み立てによってライトノベルが創られていると聞く。このライトノベルは主人公も脇役もキャラクター化されており、物語の組み立てはこのキャラクター次第である。小説も創造ではなく、断片化された要素=情報を構成して物語をつくる時代になったということだ。

断片化された物語情報を身にまとう居場所の一つが携帯によるサイト「学校裏サイト」だ。文科省の発表ではネットいじめが横行し、時としてそれは現実世界にもまたがる。こうした情報の時代では前回も書いたが、一つの通過儀礼として考えなければならない。通過儀礼をはしかのように一過的なものにするには、あのキッザニアのような「体験」が必要となる。ここ一年ほど偽装事件が相次ぐこともあり、商品・メニューの多くが「体験型」となっている。今年も都市の百貨店ではカブトムシやクワガタが売られることと思う。カブトムシやクワガタを虚構とは言わないが、これからは昆虫ウオッチングツアーが売られる時代だ。

現在のオンラインゲームにおけるアバダーのようにわきまえた遊びはかまわないと思う。しかし、情報の時代である以上、分身となるキャラクターは再生産されていく。キャラクターという精神的コスプレをまとう虚構世界はこれからも様々なところで増殖し続ける。そして、その都度<虚構→現実体験>という新たな市場が生まれてくる。(続く)

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2008年5月18日 (日)

個族と家族

ヒット商品応援団日記No266(毎週2回更新)  2008.5.18.

昨年夏に「個族の居場所」というテーマで、「個人化」という視座はあらゆるビジネスに不可欠であると書いた。バブル崩壊以降の中流消滅意識は個人の自立へと向かうこととなる。社会の単位も家族から個人へと変化する。そうした中での、社会現象や新たに生まれる市場について書いたものである。まだ入り口しか書いていなかったので、「中流消滅」という視点から個族市場の変化推移を考えてみたい。

バブル崩壊以降も1997年までは世帯収入は増え続ける。しかし、その裏側ではそれまでの慣習や常識といった多くの神話や価値認識が崩壊していく。大企業、終身雇用、・・・・その一番根底にあった家族神話が崩壊し始めていたのだ。私が「人力経営」という本の中で書いたカリスマ経営の渋谷109エゴイストの主要顧客は、まさにそうした既成概念崩壊、神話崩壊という混沌の中で漂流する若い10代の子供達であった。時代の変わり目に敏感なのはいつの世も若い世代である。既成に飽き足らない若い世代は、山姥、ガングロといった無秩序、無法のような姿に大人には見える。しかし、混沌とした時代を映し出しているのも、また彼女達である。

個族と名前をつけたのは私であるが、1990年代後半渋谷に集まってきたティーンこそこの個族の芽であったと思う。大人にとって一種異様にも感じられる渋谷という街は、彼女達にとっては居心地の良い自由な舞台空間、学校にも家庭にもない「居場所」である。そして、何よりも「大人」になるための学習体験の場であった。私はそうした社会体験の場の象徴として渋谷109を「大人の学校」と呼んだ。それは時に、援助交際や薬物中毒といった、大人の罠にはまってしまうという社会問題も引き起こすのであるが。そうした清濁、善悪混在した一種の通過儀礼の空間としてあった。これはインターネット上の出会い系サイトを含め子供達の多くが通過しなければならない儀礼と同様である。

社会の単位は住生活の変化に表れてくるように、1990年代単身的生活世帯は50%を超えた。
豊かさと引き換えに新たな問題も生まれてくる。周知のような家族の崩壊である。夫婦共稼ぎは当たり前のこととなり、離婚率は上昇、家族団らんという言葉は既に死語となっていた。一方、自己防衛意識は急速に高まり、その延長線上には「私生活防衛的」暮らしとなっていく。それらの極端な在り方の象徴が「ゴミ屋敷」といった「公」の欠如である。勿論、成熟した「個」からはエコロジーを踏まえたマイ箸に見られるようなマイブームも起こってくる。

しかし、こうした問題に敏感に反応したのが「家族の再構築」といった取り戻しである。その第一が「家族の居場所」で、確か三井ホームの戸建住宅は、リビングでもない学習スペースでもない、家族が個々自由に使える、いわばファミリーパブリックスペースを組み込んだスペースが作られている。飲食施設にはファミリー用の個室が作られ、ホテルや旅館も三世代旅行までを含めたプログラム対応をはかっている。勿論、前回取り上げた新富裕層市場を形成する有職女性の「ヒトリッチ」と表現されるような「お一人様歓迎」旅行やデザイナーズマンションの売れ行きも好調である。こうした家族の取り戻しと個族固有のライフスタイルとが混在しているのが「今」であろう。

日本のマスメディア、ジャーナリストは、「家族」に注目は集まるとそれまでの「個族」は全て忘れ去り、一斉にニュースを集中させる。しかし、「個族」固有の消費は厳然としてあり、新たに「個族」へと向かっている独身団塊ジュニアはそれまでの「ヒトリッチ」といわれている消費とは少し異なる。元々「セレクトショップ」市場を創ってきた世代であり、ブランドへの執着はない。また、団塊世代の母娘消費に見られるように仲良し家族である。母親からの影響でエコロジー意識は強く、従来のような「ヒトリッチ」市場とは異なる市場を創っていくと思う。私がそんな独身団塊ジュニア市場にネーミングするならば、「セレクトリッチ」とでも呼ぶ。それからこれから更に大きくなるのがシニア世代の個族である。この市場はいつか本格的に取り上げてみた。いずれにせよ、「個族」市場は世代を含めそれぞれ異なる市場を形成しており、ますます顧客は誰かが重要な時代だ。(続く)

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2008年4月27日 (日)

情報時代の通過儀礼

ヒット商品応援団日記No260(毎週2回更新)  2008.4.27.

少し前に「連鎖する社会」というテーマで情報の時代の特徴について書いた。こんなことは当たらない方が良いのだが、ここ1週間ほど、報道されるように「硫化水素自殺」の連鎖が起きている。この報道を耳にした時、日本が情報時代を迎えた1980年代に起きた岡田有希子後追い自殺現象を思い出した。1986年4月に所属事務所の屋上から飛び降り自殺したアイドル歌手であるが、死の現場に多くのフアンが集まり、彼女の死後2週間で27人の自殺者を出し、社会現象化した事件である。
当時はアイドル論が盛んで、「ディズニーランドに似合うアイドルを創ろう」といった仮想現実化に注目が集まっていた時期である。アイドルという身体をもたない創られた虚構の世界。そのアイドルの死を情報死として、いわば「情報心中」として連鎖していった社会現象である。このことに大きな衝撃を受けた事件であった。

こうした社会現象化する予兆を感じた時だけ、私は2チャンネルの掲示板のスレを読むのだが、いやなことだが無数の書き込みを読んだ。周知のようにサンスポのZAKZAKをはじめTVのワイドショーの情報源の多くは2チャンネルである。虚実、清濁、混沌とした世界であるが、鶴見済による「自殺マニュアル」以降、ネット上では「練炭自殺」を経て、硫化水素に関する書き込みは既に昨年後半からあった。勿論、自殺を助長してはならないので詳しくは書かないが、岡田有希子以降の時代背景が映し出されている。
その特徴だがネット上のスレは個人であり、練炭自殺の時は「仲間」を呼びかけたことにあった。今回語られていたことは、全て「個人」についてであった。しかも、スレの向こう側に膨大な自殺予備軍を私は感じてしまった。

「何かおかしい」と今から7年ほど前に既存情報をつぶさに調べたことがあった。勿論、経済ばかりでなく、社会現象や病気に至まで、ライフスタイルを構成しているであろう多くの指標となる情報を分析した。嫌なことだが市場が心理化していることから、精神病患者数や内容の変化、自殺者数の変化、公表はされていないが自己破産件数の推移なども含まれていた。
家計収入面では、バブル崩壊以降も増え続け、1998年から急速に減少する。1997年には拓銀や山一証券が破綻する。この年を境に自殺者が3万人を超えるのである。単に経済が悪化したからということではない。それまでの多くの価値観、大企業神話、終身雇用、年功序列、IT導入による仕事そのものの変化、そこに現れたのが「競争」である。こうしたパラダイム変化と共に、少子高齢化の入り口である生産年齢人口も減少へと向かう。つまり、今日現象化している多くは1990年代後半に始まっていた。

この転換点で一番大きな問題が個人化社会であった。豊かさと併行するように暮らし方が個人単位へと変わったことだ。住まい方も単身世帯と夫婦二人世帯が全世帯数の50%弱となり、夫婦共稼ぎは至極当たり前となった時代だ。この個人化を更に加速させたのがインターネットの普及である。皮肉なことに、瞬時に「答え」が手に入るGoogleという方法も手に入れることとなる。ちなみに2チャンネルの硫化水素による書き込みには「練炭自殺に代わる、新しい自殺方法が開発されました」とある。厚労省による商品販売規制の通達が出され、ネット上における監視規制が強化されると思う。しかし、どんなに規制を強化しても書き込みは続き、サイト訪問者も存在する。情報化社会にあって、ネット社会は越えなければならない新しい一つの通過儀礼のように思えてならない。自殺を100%思いとどまらせることは不可能かもしれない。しかし、詩人谷川俊太郎さんはコトの本質を詩人らしい表現で指摘してくれている。それはあの糸井重里さんが主宰している「ほぼ日刊イトイ新聞」の中で、読者からの質問に答えるという形でだ。「谷川俊太郎質問箱」より。

【質問】
どうして、にんげんは死ぬの?
さえちゃんは、死ぬのはいやだよ。
(こやまさえ 六歳)

追伸:これは、娘が実際に 母親である私に向かってした質問です。
       目をうるませながらの質問でした。
        正直、答えに困りました〜
   
[谷川俊太郎さんの答え]

ぼくがさえちゃんのお母さんだったら、
「お母さんだって死ぬのいやだよー」
と言いながらさえちゃんをぎゅーっと抱きしめて
一緒に泣きます。
そのあとで一緒にお茶します。
あのね、お母さん、
ことばで問われた質問に、
いつもことばで答える必要はないの。
こういう深い問いかけにはアタマだけじゃなく、
ココロもカラダも使って答えなくちゃね。

今、私たちに一番欠けていることを指摘してくれている。「アタマだけじゃなく、ココロもカラダも使って答えなくちゃね」と答える谷川俊太郎さんの暖かくもその明快さに強く共感する。母と子を、本人と回りの人との関係に置き換えてみる。アタマという言葉を理屈という言葉に置き換えても、ココロを愛情にと置き換えても、カラダを「虚構から現実へ」と置き換えてもいいかと思う。相談、会話、そして何よりも「ぎゅーっと抱きしめて一緒に泣くこと」が必要な時代だ。(続く)

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2008年4月24日 (木)

「正解」のない試験時代

ヒット商品応援団日記No259(毎週2回更新)  2008.4.24.

本格的にはWiiの脳トレ以降であるが、TVのバラエティ番組の多くがクイズ的なものばかりとなっている。「知のゲーム」をエンターテイメントたらしめるために「おばかキャラ」を作ったりしているが、いわゆる雑学の世界である。雑学は博識とは違い、全て短編、ショートストーリ、部分、といった興味の先端部分のみとなる。フルスピードで駆け抜けている時代にあっては、深く考えたり、理解の先を見極めることなど難しい時代なのかもしれない。私はあらゆる単位、社会から経済、消費に至まで「小単位」となった時代という認識をしているが、知のゲームもまた小単位ということだ。

団塊世代の大量退職により、新卒の就職率は順調のようである。先日NHKの番組で「地頭力を鍛える」というテーマで、答えの無い答えを求めた入社試験を取り上げていた。まあ、一言でいうと以前流行った「ゼロベースシンキング」、過去や諸条件にとらわれず新しい発想を求めるといった内容である。SONYの創業者である盛田さんは「人に真似されるものを作りなさい」と常にオリジナリティを求めた経営者であった。そうしたポリシーと同じテーマである。
そのTV番組で紹介された中に、マイクロソフト社の入社試験があった。「富士山を動かすにはどうしたら良いか」という設問で地頭力を試すということがコメントされていた。富士山は見るもので動かすものではないと誰もが思っており、意表をついた設問だ。従来とは異なる新しい発想のできる人材をマイクロソフト社は求めたのだと思う。正解はないのだが、モデルとなる「答え」は、富士山の容積を計算し、パワーシャベルと車で他の場所に移動するというものであった。ゲストコメンテーターの糸井重里さんは、「先が見えない時代の企業の悲鳴のようだ」とコメントしていた。

欲しい情報はネット上で検索すれば瞬時に手に入り、あまり考えることなく一定の答えが出せる時代だ。しかし、同じ答えばかりの世の中では唯一の競争力は価格だけとなり、これまた答えにはならない。ところでこうした知恵やアイディアを経営の中心に置きたいとどの企業も考えている。その源である能力とは脳力であると言われ、今注目されている脳科学者の茂木健一郎さんは、人間の脳を大きく変えたものが2つあると言っている。1つは言語を持つことによって大きく脳が変わってきたということ。もう一つがインターネットの世界が人間の脳を大きく変えていくと言っている。

言葉を持つことは,ベストセラー「声を出して読みたい日本語」を書いた齋藤孝さんが言われているように、心も身体も元気になる、生き生きとさせてくれることは理解できる。もう一つのインターネットの世界であるが、茂木さんは検索エンジンのGoogleを取り上げて、検索→絞り込み→選択、という手順を踏んで「求めるもの」にたどり着く。従来であれば、図書館に行って調べたり、人に聞いたりして選択までの時間がかかるが、Googleだと瞬時に出来てしまうこと。そして、この選択という脳の働きはいわば直感力そのもので、インターネットの世界は、無料で自由にこの直感力を働かせるという説を述べている。つまり、いろいろな条件や壁によって抑えられてきた無意識下にあることや感性的なものが表舞台に出てくる可能性があるという考え方である。齋藤さんの「声を出して・・・」もそうだが、人間が本来もっている五感力、感じ取る力を取り戻すことが重要であることは理解できる。

先が見えない時代は当分続く。であれなこそ想像力、仮説力が求められるのだが、前回書いた天野祐吉さんはそのブログの中で、落語家志の輔さんの「教育論」を引用して、この地頭力に触れている。出来の悪い子供をもつお父さんが先生に呼び出されて試験の出来の悪さを指摘される落語で、ここに出てくる試験問題が天野さん流の地頭力の答えである。
「81個のりんごを3人にひとしく分けるにはどうすればいいか」という設問に対し、与太郎みたいな子供は、”ジューサーでジュースにして分ける”と答える。理由は”りんごには大きいのや小さいのがあるし、甘いのやすっぱいのもあるから。だからジュースにしたんだ”というのが答えだ。そうかと思うと「本能寺を焼いたのは誰か」という設問に対しては”ぼくじゃありません”と答える。そんな落語を引用して、天野さんは「正解とは何か」、そしていわゆる「試験の愚かさ」を指摘している。マイクロソフト社の「富士山を動かす」入社試験問題より、この志の輔さんの落語に出てくる与太郎の試験に対する「答え」の方が、よほど想像力を引き出す良き試験のように、私には思える。毎日が試験であるビジネスに正解はない。だから面白いのだ。(続く)

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2008年4月16日 (水)

連鎖する社会

ヒット商品応援団日記No257(毎週2回更新)  2008.4.16.

4月12日内閣府は「社会意識に関する世論調査」を発表した。現在の日本で悪い方向に向かっている分野(複数回答)に、「景気」と答えた人は43.4%、「物価」と答えた人が42.3%、「食料」と答えた人が40.9%と昨年1月の前回調査と比較し極めて高い%を示していた。一言でいえば、景気が悪い中で物価が上昇し、食に不安を感じる生活者の姿がものの見事に表れている。(http://www.asahi.com/life/update/0412/TKY200804120148.html)生活実感レベルで言えば至極当たり前のことであるが、わずか20年ほど前の「1億総中流社会」は「1億総不安社会」へと変貌したということだ。

確か昨年日経ビジネスは「ワイドショー型不況」というキーワードで、情報化社会の特徴を指摘した。勿論、情報の時代はたった一つの情報によって、右へ行ったり左へ行ったり、心理の揺れはダイレクトに市場へと反映する。「発掘!あるある大辞典」のやらせや食品偽装事件を持ち出すまでもなく十分体験学習してきた。不況感も、マスメディアの過剰に繰り返す情報によって作られることも事実である。萎縮する心理は連鎖し、不安と同様に不況感も作っていく。

こうした情報化社会の特徴が明確になったのは、1980年代後半から1990年代にかけてであった。情報化とはあらゆるものがメディアとなることであり、マスメディア広告の価値が多様なメディアの出現により相対的にその価値を失っていく時期と重なり合っている。今なお少しは残っているようだが、「噂マーケティング」「口コミマーケティング」といった人メディアを介した流行づくりがセグメントされた顧客層ごとに行われた。例えば、主婦組織におけるネットワークを上野千鶴子さんが「女縁」と呼んだのもこの時期である。更には、1990年代半ば以降、V字回復した渋谷109に集まる女子高生を対象に、同じ年代の女子高生を使って「噂」を流布させる販売促進が行われていた。そして、インターネットという虚構・匿名世界を経て、mixiのような「情報縁」へ。メディアの変遷と共に、情報はネットワーク化されたメディアに乗って伝わっていく。

敢えて、こうした情報の持つ意味合い、その経過を書いたのも、「今」を見定めるためである。マーケティングとは顧客創造のことであるが、その最初のステップは「何」に興味・関心を持っているかを探り、それらを入り口に持っている商品やサービスを提供することにある。確かに、生活者の最大関心事は、年金や医療、景気・・・・そうしたことへの不安解決であることは間違いない。1990年代後半、拓銀や山一証券の破綻以降、「次はどの銀行が破綻するか」といったテーマで経済誌は埋め尽くされ飛ぶように売れた。TVは新聞の情報を二次加工して伝え、スポーツ紙の一面には同じような政治や経済のニュースが並ぶ。そうしたメディアの情報一極集中化・大騒ぎをメディア・サーカスと呼ぶそうであるが、既存メディアの情報は、そうした競争環境にあって興味・関心だけを満足させる「世間話」となっていく。

「世間話」は虚実の境界線上、あいまいな情報のことである。今、起こっていることはこうしたあいまいな不安ではない。現実、具体的な問題であり、解決していくことがマーケティングに求められていると思う。政治の課題が多くを占めているが、ビジネスにおける解決のキーワードは「体験」「経験」である。情報に対する実体験ということだ。メディアサーカスに乗った訳ではないと思うが、1年半ほど前にスタートした新しい和菓子の専門店は数百店にまで膨れ上がった。しかし、都市部の店舗では急速に売上を落している。臨界点に来ていると言えばそうであるが、情報の波に乗ることも必要ではあるが、クリスピー・クリーム・ドーナツのように敢えて出店を抑え、今なお行列ができている店もある。食べてみてまた買いたいという体験・経験が、どうつながり連鎖していくのかを見極め出店している良き事例である。既に、体験偽装、経験偽装といった問題も少しづつ出てきてはいるが、この時期こそ「体験マーケティング」が不可欠となっている。更に言えば、体験が連鎖する社会へと向かって行くということだ。(続く)

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2008年4月 6日 (日)

「私」を超える物語

ヒット商品応援団日記No254(毎週2回更新)  2008.4.6.

前回ガソリン税の時間切れによる値下げに関し、ドライバーやGSの対応を踏まえ、構造的な不況に入ったと書いた。このテーマの続きではないが、5月の連休のレジャーに関する予約情況は、海外旅行は減少し、国内旅行は若干増加傾向が見られるという。今年は休日が飛び石であることから、近場で、安く、旅行日程は短いと。ちょうど1992年のバブル崩壊時のキーワードは「安・近・短」であった。死語になったキーワードを再び思い出すとは思わなかったが、1992年以降の低迷期とは根底から異なる。東京では週末には郊外の行楽地にマイカーが殺到し、周辺道路は一日中混雑した。

昨年から「価格」が大きなテーマとなると書いてきたが、今回のガソリン価格ほど市場(ドライバー)の在り方が明快な行動に移った例はない。モノとしてのガソリンについては各社大きな違いはなく、徹底した類似競争市場である。ガソリンというモノでは差別化しえないため、給油中にチョット休んでもらうためのカフェやコンビニを併設するといった「業態」開発が行われてきた。あるいはどの業界でも同じであるが、リピーターを創るためにポイント制なども導入されてきた。こうした違いを創るための、いわば付加価値による「違い」競争を繰り返してきた市場でのガソリン価格の値下げである。

TVや新聞での報道はGSは「価格競争」状態になったという一言ですませているが、顧客であるドライバーの価格価値認識が従来言われてきた「付加価値」とは異なる価値認識が生まれてきているのではないか。既に、価格を決める主人公は、世界における原油価格を決める舞台には立てないが、少なくとも国内での価格決定においては顧客・ドライバーの側に移っているということだ。つまり、情報の時代の価格という情報は、口コミやネットの比較サイトによって、価格決定権は顧客側に移っている。相次ぐ値上げの中で、ヨーカドーグループやイオンが円高差益(米国ドルに対して)を値下げで還元したのは、小売業という顧客欲求を反映する業態としては至極当たり前のことである。

さて、政治によってガソリン価格が再度値上げになるとすれば、「私」を超える「何か」、大いなる物語という「何か」によってでしかない。しかも、単なる再値上げ分を環境税に充当させるといった部分の話ではなく、国と個人という大きな物語、グランドデザインを描くことによってだと思う。バブル崩壊後の十数年、学習してきたことは、「公」としての認識、一人ひとりはある意味で「公」務員との認識だ。マイブームならぬ、パブリックアクションがボランティアという狭い世界を超えて、広がりつつある。行政と市民、産業と生活、大企業と中小企業、従来あった垣根を取払い、行動する個人や団体が出てきた。

このブログでも取り上げたことがあるが、滋賀県の若いGSのオーナーである青山氏は天ぷら油の廃油を集め、バイオディーゼル燃料として活用するビジネスを始めている。廃油の回収には市民や行政、ヤマト運輸も参加し、精製された燃料は松下電器の工場で使う。ここには垣根は既にない、いわば公民ビジネスである。東京和田中学の地域本部もそうであるし、長野飯田市の市民ファンドによる省エネ事業も同様の発想だ。ネット上では、あのオープンソースという思想、リナックスやウイキペディアが稼働しているが、こちら側でも「私」を超える物語づくりが始まっている。構造化されている不況を乗り越えるには、こうした公民ビジネスではないかと思っている。(続く)

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2008年4月 2日 (水)

平成構造不況へ 

ヒット商品応援団日記No253(毎週2回更新)  2008.4.2.

4月1日暫定税率の時間切れによるガソリンが値下げとなった。一週間ほど前から混乱が起きるとマスメディアは報じていたが、混乱は政治の世界だけで、GSも利用者も至極当たり前のこととして初日を終えた。どこのGSが一番安いか、口コミや運転中にガソリン価格を確かめたり、ネット上の比較ガソリン価格サイト(http://gogo.gs
)を見て、今まで控えていた給油を満タンにするドライバーがほとんどであった。一方、当然であるが、提供する側のGSは周辺の競合GSの価格をにらみ、赤字覚悟で価格を設定している。情報の時代ならではの現象が随所で見られた。
同時に、原油や原材料のコストアップによる本格的な値上げが始まった。2007年度の企業決算は大企業・輸出企業を中心に極めて良い成果になると思うが、昨日の日銀短観の発表を待つまでもなく、2008年度は一挙にマイナスへと転じることが予測される。

今、内需拡大・地方経済の格差是正を含めたテーマに経済諮問会議を始め議論されているようであるが、私は経済のアナリストではないのでマクロ経済の動きについては分からない。しかし、消費というミクロの経済については理解しているつもりである。昨年から「価格」という壁を超えるにはどうしたら良いのかこのブログでも書いてきたが、今明確に不況の時代を迎えたと理解している。日本のGDP420兆円の約6割が消費によるものである。今回のガソリンの値下げに対する生活者の冷静な行動を見るにつけ、出口の分からない構造的な不況のように思えてならない。

昨年このブログでも書いたが、不況の時代には「笑い」が求められていることは周知の通りである。大きな笑いではなく、チョット笑える、そんな小さなことが商品にも、販売にも、店頭での一言にも求められているということだ。
ところで不況の時代には笑いと共にもう一つ面白い傾向が見える。日本経済の不況時にはキャラクター産業が奇妙な成長を遂げていると指摘したのは、あの「物語消費論」を書いた大塚英志さんである。高度成長期を終えた1970年代に、ドルショック・オイルショックという大きな転換点を迎え暗い不況の時代にあの「キティちゃん」が誕生し、サンリオの奇跡と呼ばれた。こうした事例を踏まえ、大塚さんは「暗い世相の中、もはや日本人は過剰な消費はするべきではないと人々が悟った時代にキティちゃんは誕生したのである」(『「おたく」の精神史』講談社現代新書より」と指摘している。

私の「キャラクター」理解はこうである。まず消費すべき価値を見失いつつある時代で、それが価格にストレートに向かっているという現状認識が第一点。こうした前提を踏まえ、従来のキャラクターという記号の意味合いが変わってきているという認識である。確かに、地方の町おこしをはじめ、過剰なまでのキャラクターが舞台へと上がっており、それなりの人気を得ている。また、「真性おたく」が1990年代半ばに消滅し、取って代わったのがキャラクターを主人公とした「ライトノベル」で、その元祖ともいうべき「スレイヤーズ」は1200万部とも1500万部とも言われている。

しかし、記号という仮想現実の消費世界から、ここ数年多くの回帰現象に見られるように、過去へ、日常へと消費価値が向かっていると私は考えている。もし自己を投影する「何か」をキャラクターとするならば、動物園や水族館ブームのように「生きていること」、生命力のもつ不思議さやかわいらしさへとキャラクターの質的変化が始まっているように思える。少し飛躍しすぎるかもしれないが、今日の雑学ブームやクイズバラエティの氾濫も、あるいは脳科学への注目も、価格以外の消費すべき価値を探している「踊り場」であるが故との認識だ。さて、この踊り場から何が生まれてくるか、新しい消費価値の芽は2008年度中には出てくると思う。(続く)

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2008年3月30日 (日)

崩壊の構図 

ヒット商品応援団日記No252(毎週2回更新)  2008.3.30.

あまり取り上げたくはないのだが、「今」という時代を透かし絵のように見える典型的な事件が荒川沖駅殺傷事件だ。TVや新聞による報道に依れば、金川容疑者は「誰でも良い、人を殺したかった。最初、態度の悪い妹を殺したかったが、不在で出来なかった。母校である小学校へ行ったが、卒業式で人が多くて果たせなかった。」と語ったと言う。
金川容疑者は24歳、父親は59歳という団塊ジュニア世代である。古くはあの1997年神戸連続児童殺傷事件の酒鬼薔薇聖斗(当時14歳)や2000年に起こった西鉄バスジャック事件の「ネオむぎ茶」(当時17歳)と同じ世代による凶悪犯罪で、豊かな時代に生まれ小さな頃から個室をあてがわれた世代として、その共通する「何か」を指摘する専門家もいる。

私は犯罪心理学の専門家でもなく、消費社会を分析し、新しいビジネス機会を見出すことを専門としている。今回の事件は、まさに消費が向き合っている「現実」の構図を残念ではあるが負として映し出している事件だと思っている。
単純な図式化というそしりは免れないかもしれないが、金川容疑者の供述である「最初は態度の悪い妹を殺したかった」とは、妹=家族を捨てることであり、「小学校へ行って・・・」とは、自らの歴史=過去を捨てることであり、更には「殺すのは誰でも良かった」とは、一般の人との関わり=社会を捨て去るといった構図のように思える。

少し前に「時代おくれ」というタイトルで亡くなった阿久悠さんに触れ、昭和という時代は「私」を超える大きな「何か」があった時代。平成という時代は「私」そのものの時代だ、と書いた。消費論的にいうと、今という時代は、「私」をいかに「何か」に同一化させるか、そう強く願う時代である。消費の価値を見失う、つまりアイデンティティを喪失した時代で、それに替わる世界をゲームやネット上といった「仮想現実」に求めたり、KY語社会のように「仲間内」の関係づくりを求めたり、おふくろの味は学校給食に替わり、それらの「思い出消費」として揚げパンや冷凍みかんが注目される。「私」という喪失感を埋めるために、そうした消費が出てきていた。

金川容疑者は、家族を捨て、過去を捨て、社会を捨て、人を殺すことで刑務所という一種の「仮想現実」の世界に入ってしまったように私には思える。このような事件は極端な例ではあるが、程度の差はあれ、「私」の崩壊は広く社会に底流するものだ。
「私」を取り戻すために、今一度食を始めとした「家族単位」による生活が見直されたり、現実に向き合い自ら創っていくために「社会体験」というキーワードが重要になり、キッザニアから山村留学まで注目される時代となっている。このブログでも取り上げてきた東京和田中学における地域本部による改革、そのなかでも父兄参加の「よのなか科」は子供と共に社会を学習し直す良いプログラムになっている。私の持論でもあるが、近代化によって崩壊した「私」を取り戻すことのなかに、新たな消費価値を見出し始めている。(続く)

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2008年3月 5日 (水)

「KY語」社会の意味

ヒット商品応援団日記No245(毎週2回更新)  2008.3.5.

過剰な情報が行き交う時代にあって、少しでも注目・話題を集めるために一時期バイラルマーケティングやサウンドバイトといった手法が専門家の間で流行った。一種のサプライズ手法でどれだけ伝達刺激を強くしていくか、政治は言うに及ばず広告や小売店頭にまで使ってきた。私は既に1年半ほど前から、こうした手法は終焉したと書いてきたが、以降のコミュニケーションの「今」について再度考えてみたい。

昨年の流行語大賞の時にも少し触れたが、とうとうローマ字式略語約400語を収めたミニ辞典「KY式日本語」が発売された。昨年の流行語大賞の一つに選ばれたKY(空気が読めない)も数年前から高校生の仲間言葉として使われていたが、昨年出版元に寄せられた新語募集ではこのローマ字式略語が上位を占め、発売に踏み切ったとのこと。ちなみに1位はKY、上位にはJK(女子高生)やHK(話変わるけど)といった言葉遊びが中心となっている。面白い言葉では、ATM、銀行の自動支払機ではなく(アホな父ちゃんもういらへん)の略語やCB、コールバックや転換社債ではなく(超微妙)の略語で若者が多用する言葉らしさに溢れている。

KY語の発生はコミュニケーションスピードを上げるために圧縮・簡略化してきたと考えられている。既に死語となったドッグイヤーを更に上回るスピードであらゆるものが動く時代に即したコミュニケーションスタイルである。特に、ケータイのメールなどで使われており、絵文字などもこうした使われ方と同様であろう。こうしたコミュニケーションは理解を促し、理解を得ることにあるのではない。「返信」を相互に繰り返すだけであると指摘する専門家もいる。
もう一つの背景が家庭崩壊、学校崩壊、コミュニティ崩壊といった社会の単位の崩壊である。つまり、バラバラになって関係性を失った「個」同士が「聞き手」を欲求する。つながっているという「感覚」、「仲間幻想」を保持したいということからであろう。裏返せば、仲間幻想を成立させるためにも「外側」に異なる世界の人間を必要とし、その延長線上には「いじめ」がある。これは中高生ばかりか、大人のビジネス社会でも同様に起こっている。誰がをいじめることによって、「仲間幻想」を維持するということだ。

KY語は現代における記号であると認識した方が分かりやすい。記号はある社会集団が一つの制度として取り決めた「しるしと意味の組み合わせ」のことだ。この「しるし」と「意味」との間には自然的関係、内在的関係はない。例えば、CB(超微妙)というKY語を見れば歴然である。仲間内でそのように取り決めただけである。つまり、記号の本質は「あいまい」というより、一種の「でたらめさ」と言った方が分かりやすい。

私もそうであるが、言葉を使うとは常に「過剰」と「過少」との間で揺れ動くものだ。「外」へと向けた過剰情報、サプライズの時代を経て、KY語が広く流布している「今」という時代は、過少、「内」に籠った言語感覚の時代なのかもしれない。以前、「Always三丁目の夕日」のヒットを含め、若い世代においても同じで、学校給食の揚げパンを例に挙げ「思い出消費」について書いたことがあった。思い出を聞いてくれる「商品」、思い出を丁寧に聞いてくれる「聞き手」を欲求している時代ということであろう。「かっわいい〜ぃ現象」も「私ってかわいいでしょ」という「聞き手」を求め、認めて欲しい記号として読み解くべきだ。

以前、作家五木寛之の「鬱の時代」に触れたことがあった。不安という不確かなことばかりの社会にあって、心が病む鬱病が増加している。その精神科医の仕事は治すことではなく、「聞き手」になり、患者と共に物語りを共有することであると言われている。今日の精神科医の基礎を作ったジャック・ラカンは患者の「理解してもらい、認めてもらいたい」という希望を「丁寧に聞くこと」が仕事だと言っている。病という情況に至らなくても、多くの人にもあてはまることだ。KY語世代を日本語を理解していない、何も分かっていないと嘆くのではなく、ビジネス現場でも社会生活を送る上でも、まず「聞き手」に徹することだ。「KY式日本語」という文脈(言葉の土俵)に沿って対話していくことも、「大人」には必要な時代だと思う。(続く)

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2008年3月 2日 (日)

次を睨むインキュベーション

ヒット商品応援団日記No244(毎週2回更新)  2008.3.2.

「ダ・カーポ」の廃刊に続き、あの「主婦の友」が休刊となった。年間200以上の雑誌が生まれ、そして廃刊・休刊の雑誌も出てくる。約3000種類発行されていると言われている雑誌全体でも対前年20%の売上減少とのこと。また、サブカルチャーの両雄と言われてきた少年マガジンと少年サンデーが過去のコンテンツを提供し合って一つの雑誌を創刊するという。いわば、過去の名作をコラボレーションによって再創造していく試みだ。この背景にも、最盛時15億冊あった販売部数も今や10億冊にまで減少している事情がある。多様な個に即したメディアの多様化に対応し切れていないと言えばそれで終わってしまうが、日本映画の再生という良きモデルがあるのに何故学ばないのか不思議である。

顧客が変われば、当然経営の在り方も変わる。少量生産少量販売、中抜きSPA、商品の回転スピードup、・・・・バブル崩壊以降多くの企業がこうした試みをビジネスモデルに取り入れてきた。対象とする市場が小さければ、小さくても経営できる方法を模索するのが経営である。日本映画の再生がそうであったように、大作ではなく小作映画をモデルに、小さな資金でしかも小さな単位のファンドで調達する。上映は小さな客席数のシネコン、夫婦割りや各種の割引特典を用意し、顧客を再び呼び戻した。そうした、小さな単位ビジネスに呼応するかのように、キラリと光る周防監督のような人材が出てヒット商品が生まれる。繰り返してしまうが、まずは小単位へと分解し再編しなければならないということだ。

最小単位、それは個人であり、この個人をメディアへと一気に加速させたのはgoogleとYouTubeである。漫画雑誌経営は販売収入であるが、一般雑誌や新聞・TVあるいはラジオメディアは広告収入を柱としたビジネスモデルである。こうした既存メディアの広告収入ビジネスを根底から崩したのが、ネットメディアだ。既存メディアの扱いに依存してきた広告代理店の再編が行われたのはこうした背景からだ。今、このネットメディアで注目すべきが「勝手広告」である。政治での「勝手に意見広告」から始まり、「勝手にブランド広告」までアイディア溢れるユニークなものも出始めている。ネットの掲示板の書き込みから生まれた「電車男」から始まり、ケータイ小説がベストセラーになる時代である。既存アナログメディア世界と全く同じことがネット世界でも起きている。最早、利用者にとってアナログとデジタル、既存メディアとネットメディアの境界はない。区別・区分によって行われてきたビジネスモデルは終焉したということだ。

ところで少年マガジンや少年サンデーの初期には顧客反応を採るはがきを分析し、更には「新人漫画家」の舞台が用意されており、一種のインキュベーション(孵化)装置が仕組みとして組み込まれていた。主要な商業施設は全てこうした孵化装置としてのスペースが用意され、「次」が何であるかの発見を行っている。例えば、渋谷東急フードショーでは売り場の中心に4コマ程度の売り場があり、常に新しい専門店が出店しており、顧客変化のアンテナ役を果たしている。また、今なお成長し続けている渋谷109では新規出店ブランドを公募し、常に顧客変化を受信する。こうしたインキュベーション装置があればこそ、変化に対応できるのだ。

孵化装置という言葉の如く、卵を産み育てる装置・仕組みであり、未来投資としてある。どんな卵が「次」をつくっていけるのか未来は分からない。だから小さく卵を産むことだ。そして、この装置は流通の場合は一定の売り場・スペースを用意することになるが、他の業種にあっても同様である。今、日本語圏のWebサイトは約1億5585万と飽和・横ばい情況であるが、個人が創った特定テーマにおける比較検索サイト等は既に数百万から数千万といった金額で売買されている。こうしたWebサイトを流通させる仲介業者も既に存在している。一方、個人事業であった農業についても変化の兆しが出てきた。確か埼玉で行われていると記憶しているが、跡継ぎのいないいくつかの農地を借り、更に知恵を借り、競争力のある大規模農業を会社経営として実践しているところもある。資本主義経済とは、あらゆるものを商品化しようとする経済活動のことだ。時代が変わり、顧客が変われば、そこに新たな市場機会が生まれる。(続く)

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2008年2月27日 (水)

物語創作者

ヒット商品応援団日記No243(毎週2回更新)  2008.2.27.

ここ数週間いくつかの案件を抱えていたのでブログの更新が遅れていた。今回はその案件の一つである沖縄のコト起こしの人達について書いてみたい。
物語消費についてはたびたび触れてきたが、ロラン・バルトの記号論を持ち出すまでもなく、物語創作者は従来の読者・受け手である我々自身が作者に取って代わった。インターネット、ブログはまさにそうした世界であり、個人放送局の時代である。このブログを通じて会話をするようになった沖縄糸満に住む二人の主婦のネットワークによる小さな勉強会を行ってきた。小さなコト起こしを始めた、あるいはこれから起こそうという人達との勉強会である。私にとっての興味はどんな物語創作を行おうとしているのか、物語の創作現場を実感してみたいことにあった。

集まったメンバーは年齢・職種・経歴・育った環境まさにバラバラであるが、共通していることは「自ら創作者を目指したい」という強い思いである。思いは個別であり、会話のやり取りによってしか「次」へと進めないので、小さな単位の塾として行った。私は常に「あなたのお客さまは誰ですか」という顧客論から始めることにしているのだが、沖縄も少しずつ変わってきたなというのが実感であった。塾の開催場所は沖縄の人達ですら保守的で閉鎖的だと言われている糸満公設市場のカフェである。時間が止まり、一種淀んだ空気を感じさせるディープな場所である。この公設市場にも観光客が来るようになってきている。リゾートホテルと国際通りを点で結んだ表通り観光、名所旧跡的観光から、路地裏観光、そこに住む人達の生活文化観光という変化の波が糸満にも訪れようとしている。

もう一人沖縄で会いたかった人物がゴザで音楽観光というコト起こしを始めたメンバーの一人であるMr.スティービーである。周知の北谷町での米軍兵士による少女暴行事件、兵士の外出禁止令、ライブハウスを始めとした商店街は閑散とし、更にシャッター通化しているとマスメディアからの報道。どんな現実を受け止めているのか、Mr.スティービーに直接訊きたかったからである。船上ライブの合間に、時間を作ってくれて、「コザの今」を話してくれた。
確かにまたしても少女暴行事件は起きた、しかしとMr.スティービーは言う。コザの音楽観光、ライブハウスのはしごツアーに真似て、ゲート通りの横丁・中の町のバーやクラブでもはしご酒プロモーションを始めたと言う。そして、はしご酒ツアーを終える朝、街をキレイにとの思いから店のスタッフは中の町の通りを掃除して帰る。ライブハウスのはしごツアーのメニューもロックミュージックだけでなく、三線ライブやOldies等チャンプルー文化を体験できるツアーメニューを検討している。また、BEGINや森山良子の歌で知られている「涙そうそう」の映画の舞台となった撮影現場観光もメニューに入っているという。マスメディア報道とは異なるもう一つの物語、少しずつコザも変化し始めているということだ。

今回久しぶりに国際通りの周辺をていねいに歩いてみた。通りは相変わらずの金太郎飴のようなお土産屋ばかりでつまらない通りであるが、いくつか新しい発見をした。一昨年位から東京でもTVや雑誌で取り上げられてきた沖縄産の塩である。その代表的な塩が「ぬちまーす」で、ぬち(命)・まーす(塩)とネーミングされたミネラル分が豊富な塩である。この「ぬちまーす」に続く塩が「雪塩」で、このメーカーが平和通りに「塩屋」(http://www.ma-suya.com)という塩専門店を今年の1月にオープンさせた。沖縄の塩と共に世界の塩を集めた専門店であるが、「合わせ塩」という塩のブレンドサービスを行っている点が特徴的だ。当たり前といえばそうであるが、沖縄は海に囲まれた島であり、長寿の食を支えてきたのが塩である。私の持論である「素(もと)食」につながる原点への着目だ。
また、沖縄に行けば必ず立ち寄る雑穀専門店がある。例年だと年末には売り切れてしまう宮古島特産の「黒あずき」が店頭に並んでいた。聞くと地元の人の要望もあり、倍の仕入れをしたのでまだ在庫はありますという。

勉強会に参加した夫婦と幼子3人で始めた「みん宿ヤポネシア」(http://www.yaponesia.com/)の福永君は『今回、ヤポネシアの「物語」を表していく、「思い」を形にしていくと いう課題があらわになりました』とメールをいただいた。また、Mr.スティービーは私との会話で本名は伏せてくださいと言い「夢を売る商売ですので」とコザへの夢を重ねて話す。一人ひとりが、思いや夢を形にしていく物語創作が始まっている。(続く)

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2008年2月18日 (月)

中心化と分散化

ヒット商品応援団日記No242(毎週2回更新)  2008.2.18.

以前、「中心化現象」について触れたことがあった。「場」の中心化現象については周知の都心回帰などが分かりやすい事例である。勿論、東京の中にも中心はあり、多摩ニュータウンのような郊外は限界集落化しており、立地というのが大きな要素に増々なってきていることを指摘した。日常における場としては、都市においては駅ということになる。地方においては大型商業施設の集積拠点であろう。つまり、通勤・通学あるいは生活利便という頻度多く利用する場が中心となる。今、地方においては中心市街地の空洞化、商店街のシャッター通り化が進み、郊外に移転させた病院等を再び中心である市街地に戻す試みも始まっている。また、県という境界を超えて、分散しているものを再編集するという試みも始まっている。

こうした場の中心化・分散編集の進行と共に、テーマにおいてはどうであろうか。例えば、昨年位までは「昭和」「家族・絆」あるいは「和」といったテーマによる商品化であった。こうした傾向は今も続いているが、そうしたテーマにおいても進化・深化が見られる。興味・関心を入り口に、体験し、学習し、厳選され、生活の中へと定着させている。今年のバレンタインデーで着目されたのが、「和チョコ」と呼ばれた和菓子メーカーが作るチョコであった。数年前から、洋菓子メーカーは小豆といった和素材を多用している。洋に振れた世界から和への変化である。2〜3年から注目されていた地の調味料、醤油は勿論のこと、ソース、塩、砂糖、出汁につかう塩乾物など埋もれた和素材がじわじわと売れている。レトルトカレーのボンカレーや三ツ矢サイダーといった定番ロングセラー商品は和と共に懐かしい「昭和」でもある。

ところで集中化が最も激しいのがマスメディアであろう。特に、TVメディアの多くはキー局と呼ばれる東京発の番組に集中しており、しかも新聞メディアの報道をニュースソースにした2次加工のようなもので、コメントを付加した程度の番組である。当然の如く取り上げるニュース商品については金太郎飴のようにどのチャンネルを回しても同じようなものばかりとなっている。こうしたマスメディアの情報集中化に乗っているのが、東国原知事や橋下知事であろう。選挙や世論調査はタレント好感度調査と同じだとはいわないが、情報は常に中心からの揺れ戻しがあるということも事実だ。最近のYouTubeが面白いのは、玉石混交ではあるがまさに個人放送局としてユニークなものが多い。更には、「勝手に広告」とばかりに広告まで秀逸なものがオンエアされている。ネット世界という分散する個人からの情報発信が一方では盛んであり、mixiを始め個をつなぐSNSが裾野を広げている。

今起こっていることは、中心化と分散化が錯綜しているということだ。情報の時代は、普通と過剰、 0と∞、とを行ったり来たりする。健康・美容ブームの中心にあった寒天、コエンザイムQ10、今はコラーゲンの吸収率競争となっている。マーケッターはどこに中心化が進み、どこは分散化が進んでいるかを見極めることが主要な仕事となっている。そのためには「見晴らしの良い場所」に立つことが必要だ。そうした意味で、東京というあらゆるものが一極集中する世界は見晴らしの良い場所と言えよう。(続く)

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2008年2月 6日 (水)

不安劇場

ヒット商品応援団日記No239(毎週2回更新)  2008.2.6.

冷凍餃子への毒物混入事件が起き、更に異なる第二の毒物混入が発表されたが、相変わらずマスコミによる犯人探しが行われている。毒物研究者や流通専門家を動員し、自ら実験まで行う犯人探しである。報道のワイドショー化を超えた謎解きといった「不安劇場」そのものだ。一つひとつの事実報道に間違いはないのかもしれないが、そうした部分・断片情報の受け手・視聴者にとって、曖昧であればあるほどパズルを解く想像へ創作者へと向かってしまう。特に、各TV局は競うように報道し、これまた一極集中化現象が起きている。冷凍餃子毒物混入事件については既に警察による薬物指紋の解析など科学捜査も始まっている。こうした過剰情報を流すマスコミに加担するようであまり書きたくはないのだが、最近の生活者心理、市場心理の動きについては書いてみたい。

2年前に「うわさの法則」というテーマで生活者心理について私は次のように書いた。
『こうした過剰反応の連鎖については、「うわさとパニック」など既に多くのケーススタディ、社会心理における研究がなされている。ここでは、その原点ともいうべき「うわさの法則」(オルポート&ポストマン)を簡単に説明してみたい。
R=うわさの流布(rumor), I=情報の重要さ(importance), A=情報の曖昧さ(ambiguity)
< うわさの法則:R∝(比例) I×A >  
つまり、話の「重要さ」と「曖昧さ」が大きければ大きいほど「うわさ」になりやすい、という法則である。但し、重要さと曖昧さのどちらか1つが0であればうわさはかけ算となり0となる。』

今回の事件に当てはめてみると、情報の「重要さ」は幼い子供が重体となったということから、人命にかかわる重要さである。もう一つの情報の「曖昧さ」については、第二の毒物混入が判明し、現時点においてはその広がりは曖昧なままの状態である。「うわさの法則」どおり、「2チャンネル」には複数の掲示板が立てられ、食品テロから始まりJT株の空売り背景説までいくつかの「うわさ」(事実かどうか判明していなという意味)が書き込まれている。

日経POSデータによると、事件報道後4日間で冷凍食品全体では36%の減少、冷凍餃子では61%の減少という買い控えが起きていると報じられた。一方、家庭で餃子を作るのであろう餃子の皮が売れているという。昨年、ペットフーズへの毒物混入事件が米国で起き、チャイナフリーという一種のプロモーション(中国製ではありませんという販促策)が行われたが、日本においても一部では実施されるであろう。しかし、流通も、生活者も、原因解明までは「控える」とした行動だけで、「うわさ」による大きな風評被害やパニックなどは起きてはいない。そうした意味で、過剰な報道のマスコミとは距離を置いた至極自然で冷静な対応である。

ここ数ヶ月、沢尻エリカの発言や最近では「羊水が腐る」と言った倖田來未発言に対し、一斉にマスメディアはパッシングしてきた。鬱屈した不安解消として、誰かを「悪者」に仕立てるといった風潮に乗ってしまったと思う。単なる、世間知らずで、妊娠の知識もないタレントであることが露呈しただけであり、メディアを使っての非難には「過剰さ」と「物語づくり」の単純さが読み取れる。善・悪、好き・嫌い、真・偽、こうした二元単純化による情報の組み立て方には一種の分かりやすさはあるが、コトの本質にせまろうとはしない。
不安という見えない舞台に立たされていることは事実である。であればこそ、犯人探しではなく、生活の中に組み込まれたグローバリズムの本質に迫る情報であって欲しい。(続く)

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2007年12月23日 (日)

「新しい強さ」を目指して 

ヒット商品応援団日記No229(毎週2回更新)  2007.12.23.

一年前の12月、2007年はどんな年となるかこのブログで次のように私は書いた。

2007年は猛スピードで駆け抜ける情報に「真」があるのか、それは「信」足りうるのか、見極めることのできる年となる。2006年、私たちは、情報の偽装、偽計、粉飾、うわさ、やらせ、といった情報体験を積んできた。そして、マスメディアが取り上げない、誰も知らない埋もれた商品が表へと出て、ヒット商品が生まれる。そんなポリシー&コンセプトの競争という本当のマーケティングの時代を迎えると思う。いや、そう願っている。

情報の時代とは、表も裏も無い、内も外も無い、あらゆる垣根・障害を超えて伝わる時代のことである。「信」足りうるのか見極めることはできたが、2007年のビジネスは「偽」そのものであった。何か、人間の持つ弱さが奔出した一年となった。

五木寛之は作家らしい表現で、この時代を「鬱(うつ)の時代」であると指摘している。戦後の昭和の時代「Always三丁目の夕日」ではないが、物質的には貧しくとも夢や希望があった時代を五木寛之は「躁(そう)の時代」であったという。司馬遼太郎の「坂の上の雲」ではないが、無我夢中で働いて「坂の上にたなびく一筋の雲」に辿りついたと思った時、果たして雲が見えたのであろうかというのが、五木寛之が今の時代を指して「鬱の時代」とした理由である。坂の上で見えてきたのは、「人間関係の喪失」であったと言う。私の言葉でいうと、時代の「踊り場」で一筋の雲は見えず、どの階段を選べば良いのか分からないで立ち尽くしている。それを鬱と呼べば呼べなくはない。五木寛之はこの鬱時代は50年続くと言う。そして、「今を生きる力」として、鬱をプラス思考として考える時に来ていると指摘(「人間の関係」ポプラ社刊)している。

ところでタイトルの「新しい強さ」という言葉は、梅田望夫さんがその著書「ウェブ時代をゆく」の中で呼びかけているキーワードである。誰もが早く目的地(目標)にたどり着きたいと「高速道路」を選び走るが、目的地に近づくと渋滞となり、なかなかたどり着けない。無料で走れる高速道路をネットの世界と見立てた指摘である。ネット以外に、一流大学から一流企業・大企業への道を高速道路としても同じである。既成、エスタブリッシュメントと言っても良いと思う。五木寛之いうところの鬱の時代にもつながる認識である。梅田さん曰く、自ら高速道路を降り「けもの道」に入って活動しているのだが、そこには「新しい強さ」を身につけなければならないと言う。この本に答えはないが、私は2つのことを感じ取った。1つは「未知への開拓精神」という志しと、そうした志しを共有できるコミュニティ・仲間を持つこと。もう一つがネットというとGoogleやアマゾンを目標とするが、それらは結果であり、好きで好きでたまらないと思える「スモールビジネス」への執着である。

話は変わるが、先日鳥取県のアンテナショップ検討部会を終え米子に移動し、いくつかの企業を案内してもらった。案内してくれた人物は大山の麓に生まれ、育ち、こよなく大山を愛しNPO「大山王国」を立ち上げた人物である。車中、大山の素敵さとそこでコト起こしをしている仲間達に話は及んだ。結論は、まだまだアイディアが足りない、知恵が足りない、そしてもっと儲けなければいけない、ということであった。私はこのブログで何回か書いた二宮尊徳の報徳思想「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」を話した。今年は道徳なき経済=犯罪の一年であったが、一方高い志しを持つNPOは「経済なき寝言」とは言わないが、ボランティアの延長線上という現実がある。それは「三方よし」には至っておらずまだまだ役に立っていない、アイディアを出しもっと儲けなければならないと。もし、「新しい強さ」という言い方をするならば、鬱を楽しむ強さ、踊り場であれこれ小さくコトを起こす勇気であると思う。(続く)

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2007年12月19日 (水)

神の手と仏の手      

ヒット商品応援団日記No228(毎週2回更新)  2007.12.19.

3年ほど前、どの病院でも断られ手術困難な患者を救う医師、「鍵穴手術」の考案者でもある脳神経外科医福島孝徳氏を「神の手」と呼ぶようになった。以降、テレビ東京による「主治医が見つかる診療所」や雑誌で紹介され「神の手」を持つ名医が広く知られるようになった。最近では、再生医療を大きく前進させるであろう「万能細胞(iPS細胞)」を創ることに成功した京都大学の山中伸弥教授なんかも神の手を持つ研究者の一人であろう。こうした医療の分野だけでなく、周知の小さな町東京大田区の町工場にもロケット部品を作る神の手を持つ技能者はいる。更に言えば、日本文化の伝承者にはこうした「神の手」と呼ぶにふさわしい高度な技能者、匠は極めて多い。

今東京大田区の町工場には若い女性達が技能を身につけたいと就職希望者が出て来た。私が好きな沖縄にも紅型を学びに単身で移住する女性も多い。あるいはWeb2.0を提唱する梅田望夫さんは、IT技術者の精神のふるさとシリコンバレーに1万人の若者を移住させようと活動している。若者ばかりか、町工場で培った技能を中国や東南アジアで自ら働き、伝える中高年も多い。ビジネスの師P.ドラッカーも言うように、ビジネス世界は全て徒弟制度である。若い人は「神の手」を学び修行し、技能を持つ人はその技能を伝承する。

「神の手」と呼ばれる福島孝徳医師は、そう呼ばれることに対し「神の手をもつ医師ではない、いつも手術前には神様に成功を祈っている」と答えている。病気を治す「神の手」という卓越した技能と共に、患者と向き合い対話する「仏の手」を持っている方だと思う。梅田望夫さんは一つの「生き方論」として「ウェブは『志』『志向性』の核さえあればどこへでもいける」(「ウェブ時代をゆく」ちくま新書)と言う。そのために「新しい強さ」を身につけよう」と呼びかけ、自ら「高速道路」を走ることなく、「けもの道」を選んでいる。ある意味「仏の手」をもって呼びかけていると言えよう。東京大田区の町工場の代表がインタビューに答えて「技能は後からでもいい。まず挨拶、礼儀から。心が一流であって欲しい」という言葉にもつながる世界である。神の手を匠の技、プロの手、あるいは高度な技術と呼んでもかまわない。仏の手を他者への優しさ、愛情、あるいは生きざまと呼んでもかまわない。いづれにせよ、神の手と仏の手は一枚のコインの表と裏だ。

今年の「新語・流行語大賞」に引き続き、恒例の世相を表す漢字「偽」が京都清水寺から発表された。ちょうど一年前、私はこのブログで2007年はポリシーの時代になると、願望を込めて書いた。高い志しに多くの支持が集まる時代にという意味であったが、「発掘!あるある大辞典」から始まった「偽」は、2007年を終えようとする12月には船場吉兆のあざとい「偽」で終えた。「志し」の一年でという思いとは全く逆の年となった。
ところで「偽」の反対語は「真」という言葉であるが、2つを合わせると「真偽」という言葉になる。それは正しいことなのか、いや偽りなのか、と言った具合に使われる二項軸の考え方である。ところで多値論理という論理学がある。真と偽の他に多数の値があるのではという論理学だ。つまり、「曖昧さ」を認める考え方と言って良いと思う。コンピュータのように0と1で物事を決めていくのではなく、真ん中も良いではないか、ファジーを一つの価値としていく世界である。ある意味直感もこうした価値の一つであろう。過剰情報の中にあって、全てが真偽混在、混沌としている時代にいる。

食品偽装・偽造に関し、このブログでも書いたことがある。日本の精進料理はその戒律から多くの「もどき食品」で成り立っていると。カニもどき食品としては、あの「かにかま」というヒット商品すら生まれている。居酒屋などで使われているさいころステーキの多くは「成型肉」である。「もどき」を作る技術は、ある意味「神の手」と言えなくはない。決定的に失ってしまったのが「仏の手」だ。(続く)

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2007年12月16日 (日)

3つのメガ・トレンド     

ヒット商品応援団日記No227(毎週2回更新)  2007.12.16.

心が向かう先、メガ・トレンドは3つある。1つは自然・健康である。2つ目は家族・絆であり、3つ目は日本の歴史・文化であると考えている。全て工業化・近代化によって失ったものである。勿論、便利さや快適さ等工業化・近代化によって得たものも大きい。しかし、あらゆる分野で「依存症」といった言葉に見られるように、行き過ぎた過剰な傾向が多発してきた。例えば、この揺れ戻しの一つが振れ過ぎた洋からの和回帰・和ブームである。

「自然・健康」においては和食への注目は更に精進料理へとつながっていく。また、埋もれた地方の食にもスポットが当たると思う。2007年は食品偽装の一年であったが、自己防衛と楽しみを兼ねた家庭菜園熱は更に高まる。自然の持つ生命力、酵素を生きたまま食べる(火を使わない)「リビングフード」なんかも流行っていくと思う。単なる癒しを超えた、自然の持つ治癒力に心と身体をゆだねるような新しいツアーなんかも流行るかもしれない。今年注目された山梨の「ほったらかしの湯」のように、満天の星空のもとでの露天風呂のように、「ザ・自然」とでも言うような未知なる体験をさせてくれるようなものに注目が集まるだろう。
十数年前にホースセラピーから始まったアニマルセラピーはペットブームへと発展し、今や都心にはドッグラン専用の施設ができている。悪徳ブリーダーや動物病院も社会問題化した一年であったが、これからも人間と同様の衣食住遊休知美といったペット市場が生まれてくる。

2つ目の家族・絆であるが、前回書いたように崩壊した「家族」をつなぎ直す動きが様々なところで出て来ている。住においては家族共有のスペース、互いに顔が見えるような空間配置、つまりコミュニケーションできるような住まい方である。個という単位から、家族単位への揺り戻し、注目された一年であった。今年のヒット商品番付横綱となったWiiも家族や仲間と遊べるソフトによるものが大きい。ファミレスを始めとした飲食サービスにおいては幼い子供が騒いでも迷惑かけないような個室が用意され、親子三世代ツアー人気や「家族割り」といったプロモーションもこうした家族単位ビジネスを後押しした。
今年の福袋には百貨店の店長体験や農業体験といった「体験型商品」が見受けられたが、キッザニアの成功によるところが大きい。子を産んだだけで親にはなれない。育てようにも昔のように祖母というお手本が無い時代である。徹底的に失ってしまったのが「体験学習」の場と方法である。元リクルートの藤原さんが杉並の和田中学で行っているのも「親子一緒」による社会学習である。家族というテーマに関わらず、体験学習という方法と場は今後も強く求められていく。

3つ目の歴史・文化については和回帰・和ブームを兼ねてこのブログでも数多く書いて来た。停滞しどこに向かえば良いのか分からない時代、そんな時代を踊り場と私は表現してきた。過去はどうであったか遡ることは至極自然なことだ。禅や般若心経への注目や四国遍路、熊野古道、更には1000年前どのようにつくられたか分からない急峻な山の斜面にある修験道鳥取三徳山三佛寺も注目された。踊り場からの視座、日本古来の精神世界から何かを得ようとする心であろう。
ところで今年の「新語・流行語大賞」に東国原知事の「どげんかせんといかん」が選ばれた。時代の踊り場を脱却しなければとの意味であるが、実は方言である。以前、標準語と方言について書いたことがあったが、方言は地方文化そのものであり、地方の時代を支えるものだ。今、埋もれた地方の商品に注目が集まっているが、実は地方文化に注目が集まっていると認識しなければならない。文化の奥に潜む精神世界もまた掘り起こされていくと思う。都市と地方の格差が言われているが、敢えて誤解を恐れずに言うと、都市にはモノの豊かさはあっても心の豊かさはない。逆にモノは乏しくとも豊かな心性世界は地方に今なお残っている。(続く)

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2007年12月 9日 (日)

2007年ヒット商品を読み解く(2) 

ヒット商品応援団日記No225(毎週2回更新)  2007.12.9.

前回に引き続き、もう少し2007年のヒット商品について読み解いてみたい。「2007年度新語・流行語大賞」には私の予測「KY(空気が読めない)」は大賞を逃したが、「ハニカミ王子」が選ばれた。ちょうど1年半ほど前に甲子園で活躍した「ハンカチ王子」を取り上げて書いたが、その潮流にこの「ハニカミ王子」もある。更に遡れば、「韓流ブーム」における「白馬の王子さま」のような一つの精神性、純粋、無垢なものへの願望を読むことができる。世俗にまみれた、というより「アンチヒール(悪役)」と言った方が分かりやすい。消費面でいうと、ピュアコンセプトの世界である。このピュアコンセプトとは、過剰なものを削り、更に削ぎ落とし残るもの、という意味である。シンプル・イズ・ベストと言っても良い。食でいうと、素材を生かす、塩味だけ、手をかけない、ある意味本質・本当に戻ろうという潮流である。

関脇にガツン系を始めとした「デカ盛りフード」がある一方、「カロリー・ゼロ・コーラ」に人気が集まる。ダイエットでは、周知のかなりハードな「ビリーズブートキャンプ」がブームになった一方、楽して痩せる「ぷるぷるフィットネス」の手軽さが人気となる。こうした価値観の反対軸にあるような商品が売れる市場の情況を私は「振り子消費」と呼んでみた。行ったり来たり振り子のように触れる心理市場であるが、この振り幅はブログでも書いたが年々小さくなって来ている。例えば数年前にダイエット&美容のためにサプリメント依存症が問題となるような過剰さはなくなり、今ではコラーゲンのようなものへとトレンドは移行してきているということである。

日経MJとは少し離れるが、情報の時代の最大特徴である情報による偽装事件が多発した年であった。関西テレビ「発掘!あるある大辞典」のやらせ問題以降、特に食品において多発した。そのほとんどが内部告発によるものであったが、内と外との垣根が情報によって無くなったということである。これは数年前から表通りから裏路地散策へ、一般的な名所旧跡団体観光から隠れ家的一人旅へといった裏が表となる興味変化にも通じるものである。更にいうと、表メニューからまかない料理といった裏メニューへの関心にも通ずるものである。つまりあらゆる垣根、境を越えてその先へ、その奥へと興味関心を喚起してしまうのが情報の時代と特徴である。

先日鳥取に行きアンテナショップの検討部会でも話題になったが、ギャル曽根が出たTV番組で今流行のランキングにおいて鳥取県の「鬼太郎の好きなビーフカレー」がレトルトカレーで1位になった。放映後問い合わせが殺到し、在庫は一掃し、生産が追いつかない情況が生まれたとのこと。これも情報の時代ならではの現象である。但し、何回も書くがブームは一過性であり、継続させていくことが重要となる。次から次へと新たな情報を提案し続けない限り、継続できないということだ。例えば、数年前から鍋に人気が集まっており、今注目されているのがカレー鍋である。もし「鬼太郎の好きなビーフカレー」に続く情報=新商品があるとすれば、「鬼太郎の好きなカレー鍋」を販売するということである。

少し前に景気は更に低迷し、消費は厳選から減選へと向かっていくと書いたが、回数減となっていた外食産業の中で、一人減少傾向になかったファーストフードも減選へと向かっている。相次ぐ食品偽装事件により、今年の歳暮贈答品に占める食品の比率は下がるであろう。1992年にバブルが崩壊した時、残業カットで「父帰る」というキーワードが流布し家庭内調理の味噌や醤油が飛ぶように売れたが、10数年を経過今日はさてどうであろうか。(続く)

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2007年12月 5日 (水)

2007年ヒット商品を読み解く(1) 

ヒット商品応援団日記No224(毎週2回更新)  2007.12.5.

12/3の日経MJで恒例の2007年ヒット商品番付が発表されたので私なりに読み解いてみたいと思う。東西の横綱には「Wii」と「電子マネー」で多くの人が認めるところの商品である。大関には顔を「自動的に認識する技術」と「ハイビジョンビデオカメラ」、関脇には「デカ盛り(ガツン系)フード」と新しいランドマークが生まれた「TOKYO」、小結以下には「YOUTUBE」、ソフトバンクの「ホワイトプラン」等。
日経MJも下半期は原油高等による景気の低迷を若干指摘しているが、ヒット商品の多くは価格戦略を中心に据えたことによるものが多い。番付に入っているヒット商品には新価格(新しい考え方に基づく価格戦略)によるものが多い。「デカ盛りフード(ガツン系)」、ソフトバンクの「ホワイトプラン」、マクドナルドを始めとした「地域価格」、GMSを始めとした「価格据え置きセール」、エコロジーをもったいない精神の発露とするならば「マイ箸」や「エコバッグ」も単に安いということだけではない新しい価格価値認識によるものだ。

従来の価格認識は1990年代後半のデフレの旗手と呼ばれたマクドナルドやユニクロのような「抜きん出た安い価格」であった。しかし、今日の価格はその「抜きん出た安い価格」を超えた新しい価格であると言えよう。今、多くの分野で値上げが進行しているが、誰もインフレとは呼ばない。従来のインフレであれば、値上げ分の多くは国内のメーカーや流通の誰かがその利益を得ることができ、最終的にはそこに働く人達の収入へと還元され、循環してきた。しかし、今日の値上げの多くはエネルギー資源国等の他の国へと吸収されていき、国内に還流することは少ない。経済のグローバル化とはこういうことである。

今年の春、東京ミッドタウンや新丸ビルのオープンに際し、東京はTOKYOとなったと指摘した通り関脇に番付された。これは世界中の人、モノ、金、情報やサービスが地球都市TOKYOに集積された象徴としてある。東京市場は地球市場という側面を持つと同時に、私は都市と地方との格差どころではないもっと大きな格差のあるまだら模様の市場との指摘をした。東京(TOKYO)は、誰を顧客とするのか、価格や流通、エリアや立地の選択が極めて重要な時代であり、極めて難しい市場ということだ。

また、この1〜2年ヒット商品の着眼をブログで書いて来たが、そのほとんが番付対象となっているので詳しくは私のブログを見ていただきたい。例えば、番付では「ニッサンGT-R」をリバイバル商品とキーワード化しているが、私のキーワードは「思い出消費」として、団塊世代だけでなく、若いティーン世代にとっても同様で、それは「冷凍みかん」や「揚げパン」人気となって表れていると指摘をした。この10年、先が見えない停滞した時代の傾向を「踊り場」にいると表現したが、こうした踊り場から過去を振り返る思い出消費はこれからも続くであろう。「2007年新語・流行語大賞」に選ばれた「どげんかせんといかん」時代の直中にいる。

もう一つ時代の傾向、踊り場から脱却する表現が強く出た年である。ファッションにおいては数年前から黒がトレンドカラーの一つになっていたが、2007年には航空機から始まりショップデザインの多くが黒を基調としたものとなっている。商品では黒い歯磨き粉、黒いカレーパン、黒い生八つ橋、黒いおいなりさん、他にも無数の「黒商品」が店頭へと出現した。その意味するところの世界は、シック、大人の色、深みや奥行き、こうした言葉で表現されるが、黒は全てを覆い尽くす強い色であり、停滞する踊り場を突破する「どげんかせんといかん」時代の色なのかもしれない。(続く)

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2007年12月 2日 (日)

過剰情報からの質的転換 

ヒット商品応援団日記No223(毎週2回更新)  2007.12.2.

サブプライムローンにおける格付け問題の疑義やミシュランの東京版から、ネット上で行われている各種のランキングまで、今やすべてがランク・格という物差しによって動く情報の時代となっている。新しく何かをする時、頼るべき情報の第一として、こうしたランキング情報は重宝なものである。東京の東急電鉄が数年前から行っている駅のコンビニショップ「ranKing ranQueen」は売れ筋ランキング商品を集めていることから結構人気ショップとなっている。思えば耐震偽装事件から2年を経過したが、その後社会的事件と呼ばれる多くが経営指標の偽装から産地偽装や表示偽装といった情報による偽装事件ばかりである。

株式市場やビジネスにおける顧客への約束といった「公」のルールは100%果たさなければならない。しかし、この2年間公も私においても情報による偽装を学習してきた。情報の本質の一つが使用価値にある。新聞も使えなければただの紙であり、TVも無駄な時間を使ったことになる。もうそろそろ情報の時代の本質を受け止めなければならないと思う。自己責任などという一方的な話ではなく、自らの判断で線引きをし、その精度を高める工夫をしていくということだ。表層の情報からその背後にある世界へ、表通りから裏路地散策をするように自らの五感で体験学習することだ。受け手である私たちも、情報依存という体質を改善しなければならない。

東京新聞でも「あれこれランキング」(http://www.tokyobaystudio.com/main/ts_lanking/ts_lanking.html)というユニークなものをランキングしている。江戸時代もこうしたランキング遊びが盛んであった。まさに「なんでもランキング」でミシュランガイドのように料理屋ランキングから大食いランキングまで、いわば情報・話のネタ遊びとしていた。当時の週刊誌である瓦版もランキング遊びを取り上げ、江戸の人達は酒の肴にしていた。瓦版には2種類あって、1つは火事の速報などを扱った「方角場所付」で、今でいう報道である。江戸の人達はその情報を基に火事見舞いに使っていた。もう一つが「辻売り」と言われている瓦版でインチキ情報満載の瓦版である。江戸の人達は「瓦版は話三分」といって、七分はだまされようじゃないかとインチキ自体を楽しむ気風があった。

ところで、以前にも書いたことがあると思うが、例えばTVの報道は事実情報を正確に伝えるというより、まるで映画を見るように劇場化させている。事件が意外であればあるほど、レポーターはその不可思議さ、謎解きへと視聴者を誘う。今回の香川坂出の悲惨な事件においても、某地方局を始めいくつかのTV報道において真犯人探しどころか示唆するような報道がなされていた。その情報を基に真犯人を特定するかの如きブログを書いてひんしゅくをかったタレントも出る始末であった。視聴者を刑事や弁護人にしたり、時には裁判官にもさせるように誘う報道である。情報の特質であるが、そうした刺激をエスカレートさせていく宿命を持っている。まるで驚きがなければ情報ではないという世界だ。この10数年、企業も生活者も多くの「過剰」を削ぎ落とし再編を重ねて来た。過剰な情報の時代にあって、モノばかりでなく情報もまた厳選から減選へと向かい質的転換が行われるであろう。その転換を促す一つがブログであり、個人メディアであると思っている。(続く)

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2007年11月21日 (水)

創業の時代           

ヒット商品応援団日記No220(毎週2回更新)  2007.11.21.

鳥取の産業活性、特に都市市場をどう開拓していくかの委員をしているので2ヶ月に1度位の頻度で鳥取に行っている。先日も鳥取へ出かけたのだが、ちょうど梅田望夫さんの「ウェブ時代をゆく」(ちくま新書)が発売されていたので、飛行機の中で、列車の中で読んでいた。「ウェッブ進化論」の完結編ということからもわかるように良く整理されていた。その整理軸は2つ、「いかに働き、いかに学ぶか」という生き方を据えている。
梅田さんは「あとがき」でこのように書いている。「レールがあると思っていても、実はそのレールがどこまで続いているかなんて誰にもわからない時代である。迷ったとき悩んだときには、時代の大きな流れに乗った新しいことにあえて巻き込まれてみる、・・・・・変化の激しい時期ならではのそんな生き方も、あんがい自由で楽しいものだ」

今回鳥取に行ったのは「アンテナショップ検討部会」という都市市場開拓の会議の他に、もう一つ小さな目的があった。それはTVでも取り上げられたのだが、鳥取はカレーのルウの消費量が全国一で、ユニークなカレーがあり、是非食べてみたかった。江戸時代からランキングは盛んであったが、地方にはこうした埋もれたニュースがふんだんにある。周知のように札幌の一軒家から口コミで広がったのがスープカレーである。カレーはラーメンと共に、日本固有の文化食になっている。ところでそのカレーを食べさせてくれたのが「みかん亭」(http://syouwayousyoku.blog.hobidas.com/)という店だ。オーナーシェフと名刺に書いてあったが、まだ若い修行中の青年漆原さんがカレーを作ってくれた。真っ黒なカレーで、決してたまねぎだけによるものではない。聞けば、鳥取の名産イカのスミを入れた真っ黒なカレーであった。少しスパイスが効き過ぎて、イカスミ本来のこくが若干少ないと感じたが、美味しいカレーであった。お邪魔したのが日曜日の夜ということもあり、街の目抜き通りはシャッター通りと化し、ほとんど人通りはないという地方都市の典型ともいえるところで店を開けている。本当は鳥取市内ではなく、東京で自分の腕をいかしてみたいとその志しを語ってくれた。

ちょうど梅田さんの「ウェブ時代をゆく」を読んでいたので、2つほどサジェッションした。独自なカレー、特徴を際立たせるためのアイディアで、1つはイカスミを使ったカレー以外に鳥取名産のトマトを使ったカレーを作ってみてはというアイディアである。もう一つが、鳥取でもカレーで街おこしをしようと、カレー好きが集まってカレーの食べ歩きをしている。そうした小さな芽を育てるために、是非メンバーに食べ歩きブログを実施しなさいというサジェッションである。「みかん亭」がTV番組で紹介された後、真っ黒なカレーを食べに東北や千葉、あるいは愛知からお客さんが来ているという。情報の時代のビジネスにはテーマ集積が不可欠ということだ。

あのミシュランガイドの「東京版2008」が発表され、三ツ星レストランに8軒も選ばれたと報道された。パリでは10軒、NYではわずか3軒で、東京の食文化の高さが論じられているが、至極当たり前と思っている。このブログでも何度となく書いて来たが、例えば2005年度のデータであるが全米でジャパニーズレストランは9000軒を超えており、世界中が日本の食文化に注目しブームとなっている。つまり東京市場で勝ち抜くということは、パリでもNYでも地球都市で十分やっていけるということだ。そして、ウェッブの世界だけでなく、梅田さん流にいうならば「こちら側」でも志しをもった若い世代が動き始めている。先日、このブログでも書いた沖縄コザで音楽観光を立ち上げたリーダーの一人、Mr。スティービーもその一人である。時代の大きな変わり目とは、また創業期でもあるということだ。お金もなく、情報も乏しく、しかし志しと溢れるような情熱、それに共感する友がいる。(続く)

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2007年11月14日 (水)

オタクのラストシーン

ヒット商品応援団日記No218(毎週2回更新)  2007.11.14.

10月29日の日経MJにアキバの「メイド最新事情」が特集されていたが、目にした方もいたことと思う。観光地化した秋葉原にカジノゲームやカラオケ、土産物屋などの新タイプのメイド喫茶が増殖しているという内容だ。私はこの情報を目にして、ああアキバのオタク文化の最後の名残であるメイド喫茶もラストシーンを迎えたなと思った。アキバはブーム消費を終え、秋葉原へと戻っていくことになる。真性オタクは既に秋葉原にはいない。いるのはメイド喫茶観光の顧客だけである。当然のこととして、ビジネス継続は難しくなる。微妙に違う美少女アニメの色合いにまで注視する、一種の過剰さを追い求めたオタクは最早いないということだ。

1980年代コミックやアニメに傾倒していたフアンに対する一種の蔑称「お宅」を「おたく」としたのは中森明夫氏であった。その後アニメやSFマニアの間で使われ、1988年に起きた宮崎勤事件を契機にマスメディアは事件の異常さを過剰さに重ね「おたく」と呼び一般化した言葉である。その後、コミックやアニメを既成に対するカウンターカルチャーであるとして、新人類世代の大塚英志氏や宮台真治氏といった論客がオタク文化の本質を語ってくれた。
しかし、オタクという言葉も健康オタクから始まり様々のところでオタクがネーミング化され市民権を得ることによって、その「過剰さ」が持つ固有な鮮度を失っていく。市場認識としては、いわゆる「過剰さ」からのスイングバックの真ん中にいる。真性オタクにとっては停滞&解体となる。つまり、「過剰さ」から「バランス」への転換であり、物語消費という視点から言えば、1980年代から始まった仮想現実物語の終焉である。別の言葉で言うと、虚構という劇場型物語から日常リアルな物語への転換となる。

アキバ系といわれるオタク文化が本格的に外側・表へと出てきたのは一昨年であった。周知の萌え系、メイド喫茶などがそうであったが、2チャンネルのスレッドでスタートした「電車男」も書籍化・映画化という形で表へ外へと出てきた。つまり「オタク」のマスプロダクツ化である。その象徴が観光地アキバであり、メイド喫茶であった。マスプロダクツ化が進み、あるフェーズに至ると臨界点を超え、急激に終末を迎える。
今、注目されている一冊の本がある。一時期、オタク推進派の旗手をつとめ、その太めの身体で人気でもあったあの岡田斗司夫氏が書いた本で、その巨体をダイエットした「いつまでもデブと思うなよ」は、オタクの終焉を見事に映し出しているように思える。

今、小説と呼べるのか分からないが、いわゆる携帯小説がブームとなっている。あるいはブログもそうであるが、書籍化されたり、映画化され、以前のコミックやアニメとは異なるサブカルチャーが始まっている。携帯小説の多くは「私小説的」ではあるが、始めからマスプロダクツの可能性を持つものとしてある。個がそのまま不特定多数とつながる、まさにインターネットの申し子そのものである。勿論、真性オタクがいなくなったわけではない。例えば「涼宮ハルヒ」オタクは今なおそのオタク世界に生きている。ちょうど、オタク文化が衰退、消えていく結節点が「電車男」であり、新しい個人文化のスタートが携帯小説であると考えている。つまり、インターネットが生活の中に浸透し、使われ、自己表現としてネット舞台に上がって来たということだ。これは推測の域をでないが、動画ブログやYouTube辺りにも次なる個人文化の芽が出始めていると思っている。こうした文化は勿論世代が異なっており、全くオタクとは異なるものである。早晩新しい呼称も第二の中森明夫氏によって一般化されていくであろう。(続く)

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2007年11月11日 (日)

価格価値化へ 

ヒット商品応援団日記No217(毎週2回更新)  2007.11.11.

ここ数年、情報によって振り子のように揺れて来た消費はその振り幅が小さくなってきた。それまで情報によって振り回されて来た学習体験を踏まえ、自分にはこれが一番、といった物差しをもったことによる。別な言葉を使うと、生活者の消費行動は「厳選」がキーワードとなった。厳選される理由が、品質、デザイン、価格、独自性、便利さ、・・・・そうした選ばれる理由を競争し合う厳しい市場となっている。メーカーも流通も、他にはない独自な選ばれる理由を求める競争であった。私が地方の時代と呼ぶのも、こうした他にはない独自な商品が都市市場という舞台に上がり注目され始めたことによる。

ここ数ヶ月前からマヨネーズ(前年同月比11.7%アップ)を先頭に身近な商品の値上げが続き、投機資金が石油に集まったことに起因する原油高・ガソリンの高騰は150円近くまで上がっている。一方、薄型テレビを始めとしたデジタル家電は20%前後値下がりしているが、購入頻度は低く、今後タクシー料金やビールを始め値上が予定されており、日常の消費実感は「値上げ感」が強くなって来ている。特に、今までは大手流通がアップした価格を吸収してきたが、それも最早限界となり、店頭での価格上昇は避けられない。偽装問題による産地表示や賞味期限、更には保存料の使用有無といった表示を子細に見てから購入するだけでなく、今まで以上に価格にシビアな顧客反応が出てくる。

また、先日の経済諮問会議のレポートからは、増税というテーマも出て来ている。与党と野党との大連立がご破算になった今すぐにとはならないが、早晩増税がやってくると多くの生活者は実感している。収入は増えないが、物価は上がり、増税が押し寄せてくるといった情況にあり、景気は予想以上に悪くなっていく。
厳選消費は減選消費へと向かっていく。例えば、意味的に表現すると、週1回家族で外食していた回数が、2週間に1回外食することとなる。1992年バブルが崩壊し、「父帰る」というキーワードと共に味噌や醤油が売れ、外食から内食へと変化したことを思いだす。

ところで、2007年と1992年当時とは生活経済の環境は全く異なる。1992年はまさにバブルという泡がはじけたという消費実感であったが、今日のそれは構造的なものとなっている。高度成長期以降、一億総中流時代を経て久しく聞いていなかった「貧困」というキーワードが「格差」というキーワードに替わるように社会に出て来た。勿論、戦後の何も無かった時代の貧しさではない。今年9月に国税庁から発表された昨年度の「民間給与実態統計調査」では、4500万人弱の給与所得者の内、年間所得300万以下が1741万人(38.8%)を占め、勿論年々増加傾向にあり、300万〜1000万という従来の一億総中流と見られていた所得者は2519万人(56.3%)で減少傾向にある。1000万円を超える所得者は224万人(5%)となっている。ところで、100万以下の所得者が361万人(8%)に及んでいるというのが実態である。

誰を顧客とするのか、という課題設定と同時に「価格」は極めて重要なテーマとなってきた。価値価格化というキーワードを私も使って来たが、これからは価格価値化ということも視野に入れなければならない時代になった。つまり、価格という壁を越えない限り、目指すべき価値に辿り着けないという意味である。どんなにこれはいいと思っても、価格という壁を越えないかぎり市場化できないという消費構造になりつつあるということだ。ソフトバンクが仕掛けた携帯料金を始め、ガツン系、特盛り、タイムサービス、夫婦割り、超割、・・・全て価格価値化の世界である。あのdancyu12月号の特集テーマは「ガブ飲みワイン」で1本1000円台のワインを紹介している。値上げ、増税という時代にあって、1990年代半ばIT技術の駆使による第一次価格革命に続き、価格価値化の第二次価格革命が起きる時代にいる。(続く)

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2007年10月24日 (水)

小さな親鸞

ヒット商品応援団日記No213(毎週2回更新)  2007.10.24.

私に目ウロコさせてくれた一人歴史研究家網野善彦さんは、高校教師時代に生徒から「なぜ、平安末・鎌倉という時代にのみ、すぐれた宗教家が輩出したのか」という質問を受け、何一つ説明できなかった。この質問が後に網野さんの歴史に対する考えを大きく変え、中世日本の既存の歴史観を根底から覆す研究へとつながっていく。中世日本の戦乱による略奪、殺人、飢え、流浪する人々を救うために親鸞、一遍、日蓮という宗教家が生まれたことは周知の通りである。今風にいうと、パラダイム(価値観)が混乱する「何でもあり」のカオスの時代であった。それは戦乱の世という側面と共に、網野さんが指摘するように貨幣経済を含めた日本資本主義とでも言える経済社会が勃興し始めた時であった。そうした時期に「何を規範とすべきか」という社会の物差しが希求され、親鸞のような今日なお生き続けている教えが誕生する。ちなみに、鎌倉時代の荘園経営の多くは禅宗の僧侶もしくは山伏であった。和菓子赤福を始め相変わらず企業の不祥事が続くが、経営リーダーの源流は聖職者であったということを認識しなければならないと思う。

直近のデータはとっていないが、鬱病を始め精神疾患は1990年代後半から増加し、自殺者の主要因となっており、最近ではキレル子供と同じように大人までもがキレル時代となった。そうした疾患には至らないが不眠を訴える人は相変わらず多く不眠解消グッズや癒し系サービスは人気となっている。こうしたストレス社会の根底には複雑な人間関係や生活とビジネスの境界線を無くし、四季という境界すらなく、ただひたすらスピードに身を任せざるを得ない時代にいるということだ。
社会へと問題を投げかけた熊本慈恵病院の赤ちゃんポストは現在8人の子供を預かっているという。しかし、病院関係者は予期せぬ妊娠による電話相談がひっきりなしにかかってくる件数の多さに驚いているという。いかに孤立した女性が多いかということであろう。

中世日本と今という時代を重ね合わせることには無理があると思うが、「何を規範とすべきか」が個人と共に、コミュニティ、企業、更には国家という単位で求められ、こころある人達が活動し始めている。Web2.0を提唱した梅田さんはシリコンバレーのベンチャー精神に拠りどころを求め、元リクルートの藤原さんは教育の再生を目指し中学校の中に地域本部を置いて新しい規範を創り始めている。この10年、ヒーローを待望するような動きが政治から経済、さらにはスポーツに至まで数多く見られた。おそらくその底には親鸞のような宗教家を待望していたのだと思う。
マーケッターやビジネスマンはモノやサービスが買われるメカニズムの解明のために心理学を再学習し、その先の脳科学へと向かっている。勿論、こうした傾向を踏まえ、悪意ある人間・犯罪者は、オレオレ詐欺を始め最近では円天といった詐欺事件を起こす。善くも悪くも、市場は宗教的になったということだ。

ところで混乱の中世日本に現れた親鸞であるが、その教えに悪人正機というキーワードがある。良く知られている歎異抄の一節に「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」がある。善人でさえ往生できるのだから、悪人はいうにおよばないということである。世間の常識からいえば、悪人でさえ往生できるのだから、善人はいうにおよばないとなるところであるが、親鸞はあえて正反対のことを言っている。親鸞は仏に仕える聖職者と庶民との間に大きな落差を感じ、自ら庶民と同じようなところで考えた人物である。なまぐさ坊主の元祖と言われているが、戒律を始め多くの既成を壊し、酒は飲むし妻子を持つといった今日の宗教者のあり方を先見した人物である。その親鸞は善とは無私無欲で下心や見返りを求める心のないことを指しており、煩悩を捨てきれない自らを悪人であるとの自覚のもとに阿弥陀にすがろうとした、と私は理解している。今、悪の権化のような言われ方をしている亀田父子や沢尻エリカであるが、ボクシング界や芸能界で小さな親鸞に出会わなかっただけだと思っている。会えば悪とはいわないが、足りない自覚が生まれていたと思う。おそらく、これからは普通の生活者の中から小さな親鸞が生まれ、そこに小さな次のビジネスが育っていく。(続く)

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2007年10月 3日 (水)

情報鎖国

ヒット商品応援団日記No207(毎週2回更新)  2007.10.3.

今、情報鎖国と言われている軍事政権下のミャンマーからインターネットを通じ、多くの情報が伝えられてきた。ジャーナリストの長井さんが射殺された映像は、私たちに衝撃を与えたが、これも独立系TVによるインターネットを通じて公開されたものだ。軍事政権は早速インターネットカフェを閉鎖しているようだが、隣国タイにいるミャンマー人のHPへの書き込みを通じ、情報は整理され世界へと発信されていると聞く。

国という単位であれ、地域単位、企業単位であれ、情報は鎖を解き放ち、求める人のところへと伝わるものだ。江戸時代、幕府は鎖国政策をとって来たが、私たちが想像する以上に自由にモノや情報が行き来していた。江戸中期には象が渡来し、運ぶ方法がないため長崎から歩いて江戸までやってきた。そうした様子は浮世絵にも残されている。動物ばかりか、チュウリップを始めとした植物からワインまで輸入され、長崎出島にはビールの醸造所まであった。今なお残っているビスケット、天ぷら、金平糖、等はポルトガル語を語源としているし、タバコはスペイン語である。

情報伝達は情報を運ぶメディアの発達と共に、そのスピードと質&量が進化してきただけで、いつの時代にあっても情報鎖国はありえないことだ。ただ情報の本質は、伝えられた情報をどう使うかにかかっている。新聞情報も使えなければただの紙となり、TVであれば時間の無駄となる。そして、問題なのは圧倒的なスピード×情報量によって、情報は常に上書きされていき意識の底に沈んでいくということにある。そのためTV報道等は常にその内容を想起させるために同じ映像を繰り返し流し、一種の刷り込みを行うのである。

こうした過剰情報の世界にあって、一方では情報鎖国の世界もある。どちらの世界にあっても、情報によって動く世界に生きている。今から7年ほど前、ITバブルが崩壊した頃、個人がメディアを持つ時代がくる、個人放送局の時代が来ると考えていた。実際、ブログというメディアが日本語圏で2600万も生まれている。しかし、このブログも自動生成プログラムが開発され、スパムとはいわないが、私のブログにも無数のブログがトラックバックされている。個人メディアと広告メディアとが混在している情況下にある。

江戸時代にも無数の瓦版(今で言う新聞と雑誌のようなメディア)が毎日発行されていた。中には大ボラとすぐ分かる瓦版もあり、逆にそうした情報を楽しむといった見極める目を江戸時代の人はもっていた。今、過剰な情報の時代を生きているが、情報の真偽を見極めるまではいかないにせよ、政治から消費に至まで複眼を持たなければならない時代だ。そして、射殺されたジャーナリスト長井さんの生きざまではないが、情報は常に現場にある。(続く)

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2007年9月19日 (水)

マーケティングは終わったのか

ヒット商品応援団日記No203(毎週2回更新)  2007.9.19.

マーケティングはその名の通り、市場創造、いかにお客さまを創るかである。元々、第二次世界大戦を終え、その軍事戦略の考え方と方法をビジネスに持ち込んだものだが、ここ数年マーケティングという言葉を見かけることがなくなって来た。大手書籍売り場にもそのコーナーはあるが、ビジネス書のベストセラーになるような本は「one to one マーケティング」(ダイヤモンド社/1995年)を最後に皆無となっている。このワンツーワンマーケティングは従来のマスマーケティングではとらえきれない顧客に対するもので、一人ひとりの顧客の好みや価値観などを識別し、それぞれに合わせてIT技術を駆使してアプローチを行うという手法である。インターネットの時代のマーケティングと言われて来たが、誰もが実感しているように、メッセージを送ってくる企業や個人に対し自分の個人情報がデータベース化されていることを快くは思わない。既に、米国ではこうしたワンツーワンマーケティングの多くはプライバシーの保護から違法であるとされてきている。

逆に、ワンツーワンマーケティングを避ける方法、例えばDSP(デジタル信号プロセッサ)のように自分が必要とする情報だけを取り出せるようになっている。当たり前と言えばそうであるが、あくまでも顧客、個人を起点としたものでなければならないということだ。このブログでも何回となく触れて来た「揺れ動く心理」市場について、リアルさ、体験あるいは対話こそが不可欠であると書いて来たが、私自身マーケティングは過度期にあると認識している。マーケティング関連の書籍売り場がパッとしないのに較べ、歴史コーナーの江戸関連の売り場には多くの書籍が並んでいる。今日のライフスタイルの原型は江戸時代にあることは私の持論でもあるが、マーケティングが過度期にあることを良く表していると思う。

前号で日本の食文化についてふれたが、この江戸時代の食文化を創ったのは庶民であった。新しい、珍しい、面白い「食」を取り入れた冒険者であったが、それを広めたのが屋台と行商であった。江戸中期までは外食といったことはなく、下賤の者がすることとされていた。しかし、中期以降、上方をお手本に、チョットした違い・工夫をしたものが屋台から流行り始める。その代表がにぎり鮨で上方のなれ鮨が原型である。てんぷらも初期は油揚げといった揚げ物屋であったものを、魚などにころもをつけててんぷらにしていった。当時のマーケティング&マーチャンダイジングをキーワード化するとすれば、簡便さ(スピード)、滋養(栄養素)、手軽さ(安価)となる。今日の食の開発にも使えるキーワードである。

今、マーケティングが停滞しているのはそのテクニックばかりに目が行き、冒険者の発見とそれを広める流通がないということだと思う。勿論、一部ネット通販において行列ができるヒット商品もあるが、その多くは手作り商品ばかりである。逆に、そうした小さなヒット商品を作り続けることがマーケティング&マーチャンダイジングのテーマとなっている。それが一見停滞のように見えても、更に小さなヒットとなっても、である。つまり、たった一人の顧客・冒険者に喜んでもらおうとする、その原点に立ち戻るということでもある。(続く)

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2007年8月30日 (木)

劇場化社会の今 

ヒット商品応援団日記No197(毎週2回更新)  2007.8.30.

劇場化社会という言葉が使われ一般化したのは「小泉劇場」からであるが、今から10年ほど前、ビジネス、特にマーケティングの世界で始まっていたキーワードである。情報の発信という視座に立つと、TVや新聞、雑誌といった旧来メディアばかりか、人も、街も、出来事も、勿論商品やショップもメディアになる情報化社会におけるキーワードだ。最近では2600万もの日本語ブログも同様である。ある意味、劇場型のブログもかなり多く見られるとうになって来た。
私は「人力経営」のカリスマ経営の章で書いたのだが、1990年代後半渋谷109を中心としたガングロ、ヤマンバといった社会現象が起こったのも、渋谷という街がスタイル表現の舞台、劇場になった最初の劇場化社会であったと考えている。

以降、情報は多様であるばかりか、過剰なまでに溢れている。つまり、情報を発信する多くのメディア同士の競争が激しくなり、舞台創り、シナリオ創り、演出も主人公もより激しくなっていく。こうした過剰情報の時代にあって、他と差別化するには
 1、分かりやすく/情報洪水の時代は分かりやすさが一番である。パッと見てパッと分かることがまず重要となる。
2、興味深く/例えば、店頭を見て店内へと入ってみたくなる心理状況を踏まえる。
3、試せるように/興味を更に奥深くするためのお試しという体験、リアリティ。
4、体験できるように/期待したことの実現であり、次回へとより期待値が膨らむようにすることとなる。
これがサプライズ手法と呼んでいる原則である。

以前、このブログでサプライズは終焉したと書いたことがある。それは誰もがサプライズ的手法でこれでもかと勝手に情報を発信していることに、生活者は慣れ、学習し、一旦内に取り入れ、一呼吸置いてから反応するようになったという意味であった。しかし、劇場型の社会にいることに変わりはない。
ちょうど、安倍内閣の人心一新という人事によって支持率が少し上がったと、新聞各社は報じた。政治も劇場化しており、その支持率を上げた大きな理由の一つが舛添要一氏の厚労省大臣への登用であったという。参院選の結果を私なりに読んだ中で、まさに組織選挙による候補のほとんどは落選し、個人の生き方や考え方共感によって当選したと書いたが、今回の人事も舛添要一という個人への期待値によるものだと思っている。多くの人は感じていると思うが、小泉純一郎と舛添要一はどこか共通点があると。政治劇場も上記1〜3までは進行している。残るは4という体験=実感である。それがこれからどんな実感へと向かうか、舛添要一という個人への期待にかかっている。(続く)

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2007年8月 5日 (日)

行ったり来たり時代

ヒット商品応援団日記No190(毎週2回更新)  2007.8.5.

このブログを書き始めて2年になるが、経済事象だけでなく、いわゆる社会的事件と呼ばれるようなものまで幅広く取り上げて来た。取り上げた事象の裏側に何を読み取るべきか、私自身の気づきを書いて来た訳である。例えば、福岡の「こどもびいる」の発想アイディアや東京湾岸豊洲などに出現した新しい都市リゾートといったライフスタイル、都心百貨店のリニューアルなど、多岐多様に渡っている。ライフスタイル研究と言えば、それで終わってしまうが、理屈っぽく言うと、「今」という時代の民俗学の一端を担いたいと思っている。

今、一番気になり、どんな変化が起きているのか注視しているのが、インターネットの世界である。10年ほど前、ネット(仮想)と現実(リアル)は対立するものであったが、今や仮想とリアルを行ったり来たりが「生活」となった。こうした感覚は10年前にはなかった感覚である。10年前、ポータルサイトというキーワードがネット上で重要なものとして語られていた。周知のように今や死語となっているが、死語へと葬り去ったのがGoogleである。2000年前後のITバブル崩壊の時代に黙々と検索用PCをネット上に置き続け、今や60〜70万台のPCが置かれていると言われている。今や、時間的、空間的にバラバラであったものを瞬時に整理し、必要とされるところに必要な情報を提示してくれる。例えば、世界中にある約7億以上のブログ、日本語圏だと約2600万ものブログから瞬時に欲しい情報が手に入る。脳科学者の茂木健一郎さんは、人類の脳を大きく変化させたものの一つは言語であったと言う。そして、このネットの世界も言語発生以来大きく脳の使い方を変えていくものであると予測している。そこまでの専門研究は分からないが、少し前にマイブームならぬ、マイ・メディア社会が到来しているとこのブログでも書いたが、考え方・表現の在り方が大きく変化していく初期段階にあるのかもしれない。

すでにライフスタイルの大きな潮流の一つが「消費から生産へ」である。モノ充足から、次の質的生活へと変化してきた訳であるが、消費する欲望から何物かを創る欲望へとお金の使い方が変化してきている。ブームとなっている家庭菜園も経済合理性だけを考えたらスーパーマーケットで買った方が安い。しかし、自ら育て収穫するという安心安全という理由もあるが、育て収穫する喜びが背景にある。食ばかりか、生活の多くのモノが自己表現になっていく。つまり、多くの生活者はクリエーターへと目覚めていく。完成品となった商品ではなく、素材や道具が買われていく時代となる。趣味の領域では道具と方法、さらには作業スペースをレンタルするビジネスが始まっている。そして、こうした創る「方法論」それ自体が売られ、自ら創った「作品」を発表する舞台が必要となる。家庭菜園という食で言うと、リアル舞台は家族や友人仲間とのホームパーティが舞台となる。ネットという仮想舞台ではレシピの公開といったものとなる。
従来はプロの手で行われていたものが、ごく普通の生活者によって行われていくこととなる。ネット(仮想)と現実(リアル)とを行ったり来たりすることの中から、ここに新しい市場が生まれてくる。と同時に、小売業は店頭に来る顧客はプロであるとの認識を今以上に持って接客しなければならないということでもある。(続く)

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2007年8月 1日 (水)

参院選の結果を読む 

ヒット商品応援団日記No189(毎週2回更新)  2007.8.1.

丁度2年ほど前に郵政民営化をテーマにした総選挙があった。いわゆる小泉劇場・サプライズ選挙で、私がこのブログを始めたばかりで、そのコミュニケーション戦略を分析したことがあった。前回ブログの「視座という目」ではないが、実はこの2年間で大きく変わったことがいくつかある。今回の自民大敗という現象につながる新しい変化であり、読み解いてみたいと思う。ところで、2年前当時「小泉ブランド」のコミュニケーション戦略を次の3つに整理していた。(番外日記・小泉総理の「ブランド戦略」分析 2005.8.13.)

戦略−1:本業、得意領域戦略/郵政民営化は勿論小泉さんにとってライフワークであり、得意としている領域での競争である。勝負をするならこのテーマでということになる。
戦略−2:一点突破戦略/構造改革は「分かりにくい」テーマである。この分かりにくさを郵政民営化を入り口→構造改革へとした図式のように一点=郵政民営化という特化戦略を採っている。
戦略−3:劇場舞台戦略/特に際立っているのがこの戦略である。総理経験者でこれほどメディアに取り上げられた人はいない。歴代の総理も多くの舞台に上がってはいるが小泉さんはテクニックではなく生来の「役者」としてである。パフォーマンスとして揶揄される場合もあるが、回数化していくに従い、いつしか、それも「小泉さんらしさ」を形成していく。

今読んでみると、まあ70%は当たっているなと思う。この総選挙は小選挙区制という仕組みにより、自民党が圧倒的な勝利をおさめる訳である。しかし、その後の経済・社会情況の様々な変化(ライブドア事件や格差社会の出現等)により、丁度1年前に「潮目が変わる」というテーマで次のように私は書いた。

小泉総理の訪米、プレスリーの聖地訪問におけるパフォーマンスも強いインパクトのある劇場演出とはならなかった。ましてや日本への帰国当日、元首相である橋本龍太郎さんの突然の逝去によって、小泉さんのパフォーマンスが対比され、ひと頃の驚きは単なる軽さへと変わってしまった。昨年の衆議院解散について、唯一正確に指摘していたのは天野祐吉さんであった。TVキャスターの質問に答え”あれは猫だましでしょ”と相撲の一手をもって喝破したのだが、この一年で私達の「感じ方」が180度変わったと思う。

そして、更に次のようにも書いた。
おそらくこの9月の次なる総理候補者への「バトンタッチ劇場」が最後になると思う。どんなラストシーン、劇場のエンディングとなるかはわからないが、「潮目」が変わってきている。その潮目とは、劇場型コミュニケーションから、日常型コミュニケーションへの転換である。別の言葉でいうと、メディア(情報発信)コミュニケーションから、リアル(対話)コミュニケーションとなる。人工的エンターテイメントから自然のエンターテイメントへ、仮想現実から体験現実へ、極端からバランスへ、刺激から穏やかさへ、軽さから奥行へ、・・・・・・キーワード的にはこうした劇場型から日常型への変化が加速していく。

今、こうして読み返してみると、このような潮目が変わったことを踏まえた戦略を小沢民主党が取って来たことが分かる。自民党の「美しい国づくり」コンセプトは抽象的イメージ的で、現実・日常感覚からかけ離れたものだ。一方、民主党の「生活維新」というキャッチフレーズを選挙直前に「生活が、第一」に変えたことはより日常言葉にした点で正解であり、その延長線上に年金問題や地方の活性、農業等への支援策があった。地方の1人区で民主党が圧勝したのだが、小沢党首が地方に出向き、小さな対話集会を重ねたのに対し、公示日からTVメディアに出演した安倍総理とは対照的である。一方的な「美しい国づくり」というマスメディアによる情報発信ではなく、少数であるが目の前の生活者との対話に支持が集まったということだ。
そして、特に特徴的であったことは、このブログでも再三再四書いて来た「個人」についてである。結論を言えば、選挙主体・方法が組織から個人へと明確に変わったという点だ。組織票を頼りにする政党はことごとく負け、個人に向かって選挙をした候補、特に都市部においては予想以上の票を獲得した。東京地方区で、誰もが5人目の当落線上にいると思われていた新人大河原雅子氏はトップ当選を果たし、個人のボランティアに支えられた川田龍平氏が当選したことに明確に表れている。あるいは大阪地方区で128万票というダントツのトップ当選を果たした無名の新人梅村聡氏もそうした一人だと思う。そして、マスメディアの選挙予測はことごとくハズレたが、個人メディアであるブログを始めとしたネット上の予測はかなり精度が高かった。実は、無党派は第一党であり、その無党派という多様な個人が動いたということだ。政治は一番遅れた世界であるが、新たな変化が始まる。(続く)

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参院選の結果を読む 

ヒット商品応援団日記No189(毎週2回更新)  2007.8.1.

丁度2年ほど前に郵政民営化をテーマにした総選挙があった。いわゆる小泉劇場・サプライズ選挙で、私がこのブログを始めたばかりで、そのコミュニケーション戦略を分析したことがあった。前回ブログの「視座という目」ではないが、実はこの2年間で大きく変わったことがいくつかある。今回の自民大敗という現象につながる新しい変化であり、読み解いてみたいと思う。ところで、2年前当時「小泉ブランド」のコミュニケーション戦略を次の3つに整理していた。(番外日記・小泉総理の「ブランド戦略」分析 2005.8.13.)

戦略−1:本業、得意領域戦略/郵政民営化は勿論小泉さんにとってライフワークであり、得意としている領域での競争である。勝負をするならこのテーマでということになる。
戦略−2:一点突破戦略/構造改革は「分かりにくい」テーマである。この分かりにくさを郵政民営化を入り口→構造改革へとした図式のように一点=郵政民営化という特化戦略を採っている。
戦略−3:劇場舞台戦略/特に際立っているのがこの戦略である。総理経験者でこれほどメディアに取り上げられた人はいない。歴代の総理も多くの舞台に上がってはいるが小泉さんはテクニックではなく生来の「役者」としてである。パフォーマンスとして揶揄される場合もあるが、回数化していくに従い、いつしか、それも「小泉さんらしさ」を形成していく。

今読んでみると、まあ70%は当たっているなと思う。この総選挙は小選挙区制という仕組みにより、自民党が圧倒的な勝利をおさめる訳である。しかし、その後の経済・社会情況の様々な変化(ライブドア事件や格差社会の出現等)により、丁度1年前に「潮目が変わる」というテーマで次のように私は書いた。

小泉総理の訪米、プレスリーの聖地訪問におけるパフォーマンスも強いインパクトのある劇場演出とはならなかった。ましてや日本への帰国当日、元首相である橋本龍太郎さんの突然の逝去によって、小泉さんのパフォーマンスが対比され、ひと頃の驚きは単なる軽さへと変わってしまった。昨年の衆議院解散について、唯一正確に指摘していたのは天野祐吉さんであった。TVキャスターの質問に答え”あれは猫だましでしょ”と相撲の一手をもって喝破したのだが、この一年で私達の「感じ方」が180度変わったと思う。

そして、更に次のようにも書いた。
おそらくこの9月の次なる総理候補者への「バトンタッチ劇場」が最後になると思う。どんなラストシーン、劇場のエンディングとなるかはわからないが、「潮目」が変わってきている。その潮目とは、劇場型コミュニケーションから、日常型コミュニケーションへの転換である。別の言葉でいうと、メディア(情報発信)コミュニケーションから、リアル(対話)コミュニケーションとなる。人工的エンターテイメントから自然のエンターテイメントへ、仮想現実から体験現実へ、極端からバランスへ、刺激から穏やかさへ、軽さから奥行へ、・・・・・・キーワード的にはこうした劇場型から日常型への変化が加速していく。

今、こうして読み返してみると、このような潮目が変わったことを踏まえた戦略を小沢民主党が取って来たことが分かる。自民党の「美しい国づくり」コンセプトは抽象的イメージ的で、現実・日常感覚からかけ離れたものだ。一方、民主党の「生活維新」というキャッチフレーズを選挙直前に「生活が、第一」に変えたことはより日常言葉にした点で正解であり、その延長線上に年金問題や地方の活性、農業等への支援策があった。地方の1人区で民主党が圧勝したのだが、小沢党首が地方に出向き、小さな対話集会を重ねたのに対し、公示日からTVメディアに出演した安倍総理とは対照的である。一方的な「美しい国づくり」というマスメディアによる情報発信ではなく、少数であるが目の前の生活者との対話に支持が集まったということだ。
そして、特に特徴的であったことは、このブログでも再三再四書いて来た「個人」についてである。結論を言えば、選挙主体・方法が組織から個人へと明確に変わったという点だ。組織票を頼りにする政党はことごとく負け、個人に向かって選挙をした候補、特に都市部においては予想以上の票を獲得した。東京地方区で、誰もが5人目の当落線上にいると思われていた新人大河原雅子氏はトップ当選を果たし、個人のボランティアに支えられた川田龍平氏が当選したことに明確に表れている。あるいは大阪地方区で128万票というダントツのトップ当選を果たした無名の新人梅村聡氏もそうした一人だと思う。そして、マスメディアの選挙予測はことごとくハズレたが、個人メディアであるブログを始めとしたネット上の予測はかなり精度が高かった。実は、無党派は第一党であり、その無党派という多様な個人が動いたということだ。政治は一番遅れた世界であるが、新たな変化が始まる。(続く)

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2007年7月25日 (水)

マイメディア社会 

ヒット商品応援団日記No187(毎週2回更新)  2007.7.25.

世界中に発信されているブログの数は7000万以上、その内37%が日本語のブログで英語圏を抜いてNO1に戻ったと報じられた。(http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000056023,20346610,00.htm)私もブログを書き始めて2年近くになるが、ブログの存在を知り自分でもやってみたいと思ったのが3年ほど前で、当時のブログ数は40万程度であったと思う。そして、マーケティングのブログなど誰も見ないであろうと言われたことを覚えている。昨年秋1000万というブログ数を超え、誰もが無視できないメディアとなった。簡単に自分のメディアが持てるという快感と共に、インターネット上に膨大な知の宝物が存在していることを知り、ブログ数を加速させている。

私がインターネットの世界に興味を持ったのは、なんといってもGoogleの出現であった。日本語版のタイムでその存在を知り、友人と共に自社名を入力し検索したことを覚えている。その同じタイムに昨年12月YouTubeが大きく取り上げられた。昨年10月このYouTubeをGoogleが2000億円近くで買収した時、日本のマスメディアは著作権等の法的障害を持つメディア買収だと批判的であった。しかし、今米国の大統領選挙/民主党では、このYouTubeを使った選挙が進んでいる。文字と映像、この2つの情報をマイメディアとして、一人ひとりが持つことが可能となった。しかも、最近ではタグを自由につけることが可能となり、マイメディアは不特定多数無限大のネット空間にあって、自在に特定の世界を泳ぐことが可能となった。ブログは個人新聞社となり、YouTubeは個人放送局となった。

こうした多様で膨大なメディア・情報の中から、Googleという検索エンジンによって瞬時に特定情報の世界へとたどり着く。しかし、最終的には自ら特定の情報を選択する訳である。ある意味、選択という直感によって情報を選ぶのだが、検索エンジンが日々賢く成長していくのと同時に、私たちの側も直感力を磨いていくこととなる。
今回私は「人力経営」という本を書いたが、これもまた一つのマイメディアだと思っている。ブログと本、似ているようだが、私にとって異なるメディアとの認識だ。ブログはその時々に起こるニュースや出来事に触発されて書くメディアでフローであり、別な言葉で言うと小売業的である。一方、本は思考を一点(テーマ)に固定・凝縮させて書くメディアでストックであり、メーカー的である。
ところでネット上には2600万もの日本語ブログがひしめき合っているが、こうしたマイメディア社会の中から、新しい表現者が生まれてくる。既に若いアニメ作家がネット上を舞台に活躍し、その評価を受けてリアル世界の広告などに出現している。ネット世界は良き修行の場となり、リアル世界へのインキュベーション装置となっている。私の友人の一人である地方紙の記者は私と会う度に「これから先、新聞は存続するだろうか」と聞く。私は、既に生活者のライフスタイルとして、ネット世界(バーチャル)と現実世界(リアル)とを行ったり来たりしている。既存のメディアもその境界意識をなくし、「行ったり来たり」を仕組み化する時代に来ていると答えている。つまり、一人ひとりがアーチストになり、ジャーナリストになり、研究者になり、・・・・その技術的専門的レベルを除外すれば、全てが表現者となった時代は、既存メディアもその表現の「場」を解放していかざるを得ないであろう。(続く)

「人力経営」の一般書店でのお求めですが、紀伊国屋書店さんが力を入れていただいており全国22店で取り扱っています。http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/443410800X.html

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2007年7月12日 (木)

コミュニティに夢を描く 

ヒット商品応援団日記No183(毎週2回更新)  2007.7.12.

以前「家族のゆくえ」というテーマであるいは折に触れて、家族の崩壊やコミュニティの崩壊についてこのブログでも書いて来た。家族という単位から個人という単位への進行、個人化社会における様々な問題点としてである。未成熟な個人によって起こされる事件は後を絶たない。昨年度の児童虐待は37,000件を優に超え、子供の虐待死は50件に及んでいる。お年寄りの孤独死も増加し、各種ボランティアや行政はその対策を実行し始めている。以前にも書いた事があるが、65歳以上の高齢者が住民の50%を超える限界集落は全国で7873カ所にも及んでいる。一方、若い世代はと言えば、以前にも書いたが様々な依存症として現れて来ている。ケータイ依存から始まり、薬物依存まで多くの依存症が若い世代を覆っている。つまり、個人化とは孤独化ということでもある。

個人化社会を先行している米国でも同様に既にコミュニティはない。このコミュニティに替わって急増しているのが、周知のメガ・チャーチである。あの共和党ブッシュ政権誕生のキーマンとなった宗教保守としてのメガ・チャーチである。2000名以上の信者を有する教会をメガ・チャーチと呼ぶそうであるが、2007年にはこのメガ・チャーチは全米で1250カ所にも及んでいると聞く。一番大きなレイクウッド教会は4万人もの信者を有し、コンサートのような礼拝は全米に放映されている。こうしたメガ・チャーチには、「米国らしさ」が現れている。その「らしさ」とは、シングルマザーの悩みやアルコール依存症といった悩みまで多くの悩み相談といった「人を助けること」をビジネスモデルにしていることだ。なんでもかんでもビジネスにしてしまう米国ならではのことと思うが約80%の人が信仰心をもつ米国ならではの世界かもしれない。

さて、日本においてはどんなコミュニティ再生が動き始めているであろうか。数年前から一斉に動き始めた町おこし、村起こしといった地域活性化センターがやっているようなことは別として、新しい試みが個人の単位で動き始めている。少し前に書いた東京杉並の和田中学の中に「地域本部」を創り、コミュニティのコアにしようとする元リクルートの藤原校長のような行動が良き例である。あるいは、ベストセラーになった「ウェッブ進化論」を書かれた梅田望夫さんによるシリコンバレー5万人移住計画なんかも当てはまる。未来へとIT技術者の聖地に集まり、その精神を共有し合うという一種のコミュニティ創造である。今回、私が取材し「人力経営」の中に取り上げた福岡県岡垣町の「野の葡萄」なんかも当てはまる。代表である小役丸さんの「どこにでもある田舎を、ここにしかない田舎にしたい」という夢を語ってくれたが、私はそんなビジネスの取り組み方を「夢経営」と呼んだ。コミュニティ再生とは理想を描くこと、その精神を明らかにすることだと思う。日本のグランドデザインという言い方もあるが、もっと小さな単位で、個人の単位で「夢」が語られ始めている。(続く)

なお、「人力経営」のお求めはAMAZON以外のセブンアンドワイや紀伊国屋などのオンラインショップでお求めいただけます。(「人力経営」とキーワード入力すれば多くのオンラインショップが出てきます)

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2007年7月 9日 (月)

変わらないこと

ヒット商品応援団日記No182(毎週2回更新)  2007.7.9.

あらゆるメディアからの情報を定点観測しているが、常に思うのがその変化スピードである。私は結構新しいもの好きなのでこの春大ヒット商品となった電子マネーPASMOを使っている。勿論、JR東日本が出したスイカも使ってはいたが、JRだけではどうも使い勝手が悪かった。途中チャージをしないまま、そのままにしていたのだが、JRも私鉄もバスまでもがこの1枚で使えると言う便利さに多くの人が殺到し、周知の通り追加発売が延期になっている。こうした動きと併行するようにヨーカ堂グループではNANACO、イオングループではWAONと相次いで電子マネーが発売された。2006年の電子マネー市場は1800億円と言われ、今年度2007年には6900億円にもなると予測されている。ヨーカ堂グループではこうして集められた顧客データを分析し、顧客が欲しい商品へとつなげて行くと、その主旨を発表している。

小売業における情報についてはそのPOSデータを駆使することで他のコンビニに追随をさせなかったセブンイレブンは単なる小売業NO1という売上規模や利益だけでなく、その顧客主義について学ぶべきことは多い。今やセブンイレブンだけでなく、西武やそごうといったミレニアムグループ全体では1日で2600万人のデータが集まっている。時間帯における顧客心理を巧みに商品化させていったのはセブンイレブンであるが、同時に気候・気温による心理変化についてはかなり精度高い物となっている。最近では一番に考えているのが市場変化である。つまり、少子高齢市場で、セブンイレブンの平均年齢はこの9年間で30歳から36歳へと6歳も上がっている。「ご用聞き」というアナログ的活動をスタートさせたのも、高齢顧客を知り、より太い関係づくりのためだ。恐らく、高齢市場が本格化する数年後にはこうした活動が生きてくると思う。

ところで、セブンイレブンという業態をつくったのは鈴木敏文さんであることは良く知られている。スタート当時は東京台東区の小さな店舗でこのような売り上げを上げるとは誰も想像していなかった。そして、当初の商品は時代と共に大きく変わってきていることも周知の通りである。実は、変わらないこともいくつかある。1つは小さなこだわりと工夫する努力である。そのこだわりとは、例えば「天候」と売り上げへの工夫である。穏やかな天候の日は想定通りの安定した売り上げを示せるが、気温が2〜3度違うだけで売れる商品が違ってくる。真冬に冷やし中華は売れるであろうか?中には変わった人間もいますからでは答えにはならない。例えば、前日8度であった気温が明日は10度以上になるという予報で仕入れ商品が決まる。気温差が2〜3度違うと冷たいものもいいかなと思う人間の心理欲求を小さなテストの繰り返しによって精度の高い仕入れと売り上げに結びつける。そうした1店ごとの丁寧なスーパーバイジングに今なおこだわっている。店頭には平均3000品目あり、1年間で約70%が入れ替わる業態である。欲しい商品が並ばないかぎり売り上げはあがらない。

もう一つの変わらないことは毎週1500名もの店舗経営相談員を東京に集めることだ。効率論から言えば、年間30億もの出張経費をかけることは問題があると見えるかもしれません。しかし、先ほどの気温が2度違うだけで売れる商品が異なる業態であることを徹底させることに経営の意味があると鈴木さんは考えていると思う。そして、もっと丁寧なお店になれば更に売り上げは上がると考えてもいる。さて、「小さな」ことの積み重ねに学ぶことも必要である。そして、小さなことは「現場」でしか分からないということも学べる。また、「何」にお金を使うべきかに学ぶこともできる。私にはもう一つ、「変わるべきこと」と「変わらないこと」を学ぶが、皆さんはどう学ぶであろうか?(続く)
なお、「人力経営」のお求めはAMAZONでは次のところでお求めいただけます。
http://www.amazon.co.jp/dp/443410800X?tag=magmagpremium-22&camp=243&creative=1615&linkCode=as1&creativeASIN=443410800X&adid=0ZK05Z269V43865QYYNN&

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2007年6月27日 (水)

こころで観る 

ヒット商品応援団日記No179(毎週2回更新)  2007.6.27.

北海道ミートポーク社による牛肉偽装事件を発端に、多くの「見えないことへの不安」が広がっている。犯罪心理学者の作田明氏は少年犯罪に触れて、それほど多発してはいないが、バラバラ殺人など猟奇的犯罪のために想像を超えた異常な世界が広がっていると分析をしている。日常、商品パッケージに記載されている表示を見て購入するが、その表示が偽装であったらという疑心暗鬼心理と同じである。
随分前に、「あのマクドナルドのハンバーガーの肉はミミズである」という根拠のない風説による都市伝説が流行ったことがある。勿論、根拠のないマクドナルドにとって迷惑な話であるが、マクドナルドはビーフ以外にも他の肉を使い、消費者に知らせていなかった事実があった。確かNHKが調査をしたと記憶しているが、その指摘を受けて1985年にマクドナルドは「100%ビーフ」として再スタートした経緯がある。

都市伝説の多くは、口伝え、口承によって、人から人へと伝わっていくが、単なる噂やデマに終わらないで伝説化していくのは、「もしかして」→「きっとそうだ」→「間違いない」・・・・という想像を超えた理解し難い世界に対し、受け手側に理解したいという欲求があることによって伝説化して行く。数年前、少年ジャンプの連載漫画「デスノート」(http://www.j-deathnote.com/)を真似した一種の遊びが流行っていたが、今や韓国ばかりか中国でも同様の口伝えが見られると言われている。つまり、こうした話は「ある」ものとしてではなく、「求められて」、そして「作られて」いくものとしてある。

つまり、「伝説」や「うわさ」を作っていくのは、私たちの「内なるこころ」が作らせているとも言える。見えない不安を背景に、逆に「見えること」を逆手に取った詐欺的商品も現れて来た。昨年来、キーワードとなっているデドックスを売り物にしたフットバスである。身体に病があると足裏から毒素が出て温水の色が変わるという器具である。エステ業界で流行っているが、ある意味色が変わるという「分かりやすさ」を使ったいんちき商品と言えよう。このように書くと「何」を基準にしたら良いのかという質問が来ると思う。勿論、妙薬などないが、情報の時代においては全てが公開されていることだ。経営も、工場も、勿論商品内容もである。そして、何よりも原因の一つとなる「内なるこころ」に自ら問いかける訓練をすることだ。(続く)

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2007年6月24日 (日)

裏が表へ

ヒット商品応援団日記No178(毎週2回更新)  2007.6.24.

北海道ミートポーク社による牛肉偽装事件がまた起きた。牛肉コロッケは年間60万個製造しており、こうした偽装はかなり前から行われて来たと報じられた。記者の質問に答えて「混ぜれば分からない」と田中社長は答えていたが、またしても「見えない世界」における詐欺行為で一年前から内部告発されてきたことが表へと出て来た事件だ。
ちょうど同じようなタイミングで東京渋谷では、シエスパという女性専用スパで天然ガスによるものと思われる爆発があり3名の死者が出る事故があった。まだ原因は明確にはなっていないが、地下1500mからくみ上げた温泉水には天然ガスが含まれており、それらを分けるガスセパレーターが誰の目にふれない地下にあり、そこにたまったガスが爆発したと推測されている。都会のコンクリートで覆われた裏側の大自然が表へと奔出したということだ。
この2つの事件、事故に共通していることは、「安くて美味しさの裏側」に偽装・嘘があり、「便利な癒しの裏側」に大きな危険が隠されていたということである。

談合、裏金づくり、裏側で行われて来た多くの犯罪が検察あるいは内部告発、一部のジャーナリストによって表へと出て来たことは周知の通りである。こうした犯罪・事件とは異なるが、裏に潜んでいたモノや事柄が表へと出て来ている。観光ルートから少し外れた横丁・路地裏の散策ブーム、知る人ぞ知る隠れ家ブーム、裏であった賄い食が表メニューへ、地下に潜んでいたオタクは映画「電車男」やアキバ系&メイドブームによって表へと出て来た。地方の隠れた物産が人気となり、銀座の沖縄わしたショップを筆頭に売上は好調である。リニューアルオープンした新宿高島屋のデパ地下には100店もの地方銘菓が集積し人気となっている。
こうした傾向はまだまだ知らないことがあるという「未知への興味」であり、口コミといった情報によって促進される。マス消費から地域や特定希少な裏消費への転換だ。

見えているようで、実は見えていなかったとの気づきが始まった、あるいは見ないようにしてきたことへの反省と考えるべきである。誰も知らないところで細々と愚直にやってきたことが、表へと出てくるということだ。サプライズという学習を経て、外側では見えなかったことを見えるように見えるようにと想像力を働かせるように気づき始めたということである。こうした動きは「昭和回帰」「ふるさと回帰」といった回帰現象にもつながっている。見るために過去を遡り、今を考えようとしているのだ。あるいは特に地方という未知への興味も根っこのところでは一緒である。いかに知らないことが多かったかという自覚であり、自省でもある。
裏はいづれ表となる情報の時代である。そうであれば、隠し先送りするのではなく、先行して公開することが重要な時代だ。(続く)

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2007年5月27日 (日)

依存症市場

ヒット商品応援団日記No170(毎週2回更新)  2007.5.27.

依存症、読んで字の如しである。古くはアルコール依存症、パチンコ・パチスロ依存症等、満たされない何かを埋めるために依存するものだが、身体的依存と精神的依存に分かれるが一種の現代病、こころの病である。薬物といった身体的依存は別として、市場の多くの商品やサービスは一種の精神的依存の特徴をもっている。特に、個人化というバラバラ社会の進行に伴い、都市生活者にとって、そのストレスから解放されるための消費はその依存という傾向を強くする。

例えば、若い世代、ティーンにとってはケータイ依存であり、持っていないと不安に苛まれパニック状態に陥る。ゲーム依存やBBS依存、あるいは、ダイエット目的の食事制限なども一種の痩身願望症という依存症と見ていくこともできる。以前書いたサプリメント依存症などは典型的である。また、女性誌には必ず掲載されるうらないも一つの精神的依存であろう。こうした満たされないこころの裏側には不安とコンプレックスがあり、他者との比較から生まれてくるものだ。一時期問題となった美顔器や寝具痩身法などの悪徳商法はこうした依存心理を背景に狙ったものだ。勿論、悪徳商法のような負の側面を持っているが、痩身や整形によって人は生まれ変われるという正の側面もある。しかし、こうした境目のない市場には一種のあやうさがある。

不安の時代、不確定の時代にあって、市場は心理化し、こころの依存というテーマはマーケティングの主要テーマとなった。個人化及び高齢化が更に進み、一人では生きられない時代へと向かっている。依存は人へと向かい、新たなコミュニティ、場が求められている。従来のコミュニティは地縁や血縁あるいは仕事縁、友人縁であったが、個人化の進行と共に情報縁によるコミュニティへと向かう。SNSといった仲間やブログ仲間、といったコミュニティだ。日本のブログが子育て主婦同士による情報交換から始まったのは象徴的である。あるいは江戸時代に盛んであった「連」という一種のクラブネットワーク組織も生まれてくるだろう。偏りの無い情報によってバランスを考えた関係消費の時代へと向かっていくと思う。マーケティングの主要課題は、こうしたコミュニティの創造と発見が目標となる。

私が言う依存症は過剰依存のことであり、誰でもが1〜2は持っている。○○オタク、△△フリーク、××マニア、既成文化や慣習に対するアンチ、反、というカウンターカルチャーとしての意味の新しさを持った世界でもある。あるいは、過剰な性的嗜好を□□フェチと呼んでいるが、いずれにせよ外見からは識別できないものが多い。さて、こうした過剰心理市場の傾向が更に強まっていく中でどうビジネスをしていけば良いのであろうか?売れればそれで良しとする依存症にウエイトを置いたビジネスはいつか問題となる。冒頭で「一種の現代病」と書いたが、全てを自己責任という言葉ですませてはならないと私は思っている。
医者は病気という問題を解決することと共に、患者という人間と向き合い病んだこころを支えるのが仕事である。医者ほどの倫理性を誰もが持つべきとは思わないが、顧客を顧客としてだけではなく、一人の人間として見ていくことが必要な時代だ。結果、場合によっては「売らないこと」もまたビジネスであると考えなければならない時代である。法やルールにおける明確な詐欺とはいわないが、詐欺まがいビジネスが横行する時代にあって、「売らない勇気」が顧客信頼を逆に得る時代に向かっている。(続く)

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2007年5月 2日 (水)

昭和と平成の段差 

ヒット商品応援団日記No163(毎週2回更新)  2007.5.2.

団塊世代論や昭和という時代については昨年来文芸春秋を始め多くの雑誌でテーマ化されてきたが、TVでもようやく取り上げられ始めた。TVというメディアの特性上、一定時間腰を据えての取り組みが難しいメディアのためであろう。しかし、映像による昭和と平成の比較は、リアルにその変化推移を分からせてくれるものだ。
1965年11月からのいざなぎ景気と今回2002年からの平成景気との違いは数字上だけでなく、昭和のいざなぎ景気時代は「Always三丁目の夕日」のような集団就職の時代と就職氷河期を終えた売り手市場の平成就職時代との比較。いや、そもそも比較の前提であるが、昭和の団塊世代は大学卒は全体の15%で中高卒が85%であったのに対し、平成の今はほとんど大学全入時代である。年々給料が増えていった1億総中流時代の団塊世代に対し、成果報酬制度という平成の若者の幸福感とは決定的に異なる。

1989年に過去最高の株価をつけたいわゆるバブル期に企業の中枢に座っていた団塊世代に対し、グローバリズムの波間で悪戦苦闘する平成の20〜30代のビジネスマンとではビジネス観はまるで異なる。2007年度から一斉に退職する団塊世代の退職金は35〜50兆円とも言われているが、多くの平成のビジネスマンにとって老後の保障は定かではないと感じている。ましてやバブル期の1987年に施行されたリゾート法による全国各地の箱もの行政によるつけは今なお残っている。

昭和と平成という時代を生活から働き方まで大きく変えたのはバブル崩壊後の1990年代の半ばであった。産業構造の転換といってしまえば簡単に終わるが、1998年11月には拓銀が正式に破綻する。金融不安は主幹事会社であった山一証券へ、大株主であった日本長期信用銀行へと連鎖していく。不動産神話から、大企業神話、終身雇用、年功序列、多くの神話が解体する。まだかろうじて増加していた世帯収入は1997年をピークに急激に右肩下がりとなる。バブル前に購入した住宅ローンによる自己破産件数も急増する。実はこの時、家族崩壊の芽が出ていた。居場所を無くした少女達は渋谷を始め、都市を漂流する。この時期にあの夜回り先生こと水谷先生が夜の街へと少女を助けに出かけることとなる。物的な欠乏感はないが、精神的な飢餓感による多くの行動の予兆でもあった。

丁度このブログを書いている最中に、いわゆる「三角合併解禁」のニュースが報じられた。よく失われた10年というが、この10年は序章にすぎない。株式を公開している以上、ゴーイングパブリック、世界市場という「公」のルールに従わなければならない。随分前になるが、東京という市場は既に世界市場のTOKYOになっていると書いたが、日本全国隅々世界市場の一部となる。合併、買収の受け止め方であるが、これもまたチャンスと見ていくことが必要だ。先日鳥取米子に友人を訪ねた時、山陰の和菓子メーカーはお隣韓国のデパートに高級菓子として輸出している話を聞いた。日本海は内海のようなもので、今も昔も交易してきたし、室町時代には太平洋を渡って南米ペルーまで日本人が行っていた。タイのバンコックではあの大戸屋が高級レストランとして流行っていると聞く。失われた10年ではなく、次の時代への段差であると見なければならない。あの「はてな」が2月にYouTubeに掲載されている動画をセレクトして提供するサービスRimoを始めた。Rimoは今人気のWiiにも接続でき、MacのiPodのようなデザインで使いやすいものとなっている。こうした若い世代が昭和と平成の段差を無くし、次の価値観を示してくれると思う。(続く)

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2007年4月25日 (水)

情報化社会の今

ヒット商品応援団日記No161(毎週2回更新)  2007.4.25.

情報化社会という言葉を私も良く使うが、その意味するものは多様で広い。ここでは情報を伝えるメディア技術の発展と共に、どのように生活者の意識変化を促したか、それが大きく動向を左右する社会という意味でここでは使いたいと思う。特に、マーケティング、新しい市場を創っていく上で「情報」が果たしている役割とその変化の「今」について私見を書いてみたい。

情報化社会の変化、質的変化を私たちに促したのはITというテクノロジーを別にすると、1995年3月オウム心理教による「地下鉄サリン事件」と1997年神戸で起きた「酒鬼薔薇聖斗事件」の2つであったと思っている。前者は今なお裁判が継続しており、後者は少年法の問題と共に再注目されたが、共におぞましい事件、狂気の事件として否応なく脳裏にこびりついて離れない。この想像を超える言葉にならない「衝撃」の大きさは、後にキーワード化される「サプライズ」という言葉が生まれる伏線となっている。この時期、どんな時代であったかというと、「不安の時代」へのまさに序章の時期であった。大企業神話を始め、従来の価値観が崩壊している時期に当たる。同時にインターネットという新しい時代の幕開けで、楽天市場を先頭にITベンチャーやユニクロ等デフレ企業が続々と生まれた時期でもある。街にはコギャルと呼ばれた少女達が漂流する、そんなカオスの時代であった。つまり、カオス、混沌の象徴として2つの事件があったということである。

メディアの変遷を10年単位で見ていくとよく分かるが、メディアの種類が圧倒的に増えて来た。情報を発信するという視点に立てば、人も、街も、イベントも、勿論商品もサービスもあらゆるものがメディアになる時代になった。戦後の新聞とラジオの時代を経て、TVや雑誌の時代、ネットの時代、しかも文字情報だけでなくyoutubeのように動画情報がまるで個人放送局のように発信される、種類も量も「過剰」な時代にいる。メディアビジネスは広告収入を基本としていることから、そのレスポンスの競争となり、「発掘!あるある大辞典Ⅱ」のような情報偽造が行われるようになる。しかも情報は鮮度、スピードが命であり、どこよりも早くが第一番目の競争となる。当然、メディアは話題になるであろう「芽」に集中する。集中すれば、「違い」を創るために更に集中することとなる。情報も一極集中し、情報格差が生まれてきた。

そして、過剰な情報が行き交う時代のコミュニケーションは「キーワード・コミュニケーション」となる。キーワードとは鍵となる言葉で、その意味する世界を短く表現する言葉である。若い頃、広告会社に勤務していた頃、コピーラーターのトレーニング法の一つに、1万語を1000文字に、1000文字を100文字に、100文字を10文字に圧縮し、その意味世界を創るプログラムがあった。10文字をキーワードと呼んでもかまわないと思う。このキーワード手法を最初に政治に使ったのが周知の小泉前総理である。「自民党をぶっこわす」から始まり、ワンフレーズポリティクス=キーワード政治を行った。以降他の政治家も「もったいない」や最近では「しがらみのない」といった具合である。つまり、キーワード・コミュニケーションとはキーワードを記憶に残し、後は当人にイメージしてもらうといったイメージ・コミュニケーションのことである。政治家は人であるから、良きイメージ、好感度といった見た目が重要となり、基本的にはタレントと同じである。勿論、選挙の際、公開されたマニフェストをよく読み、検討する人も存在しているが、圧倒的に少ない。既に、政治家も一つの商品として見ていくことはかなり前から行われて来た。

デジタル社会における情報はまさに白か黒、0と1、どちらかの意味しか持たない。情報は受け止めて反応するものではなく、瞬間的に感応する感じるものとなる。しかし、ここ1〜2年感応したことによる結果に対する学習が進んだ。「情報」の前で立ち止まり、一呼吸置いて反応するようになってきた。今回の長崎市長選挙の結果を見ても分かるが、投票総数の7.7%に当たる無効票15,000余の内、白票が4,558票、亡き伊藤市長などの名前を書いた票が7,463票もあったと報じられた。伊藤市長への想いは勿論強くあったのだと思うが、それ以上に新たに立候補した二人の候補者を判断する「情報」がほとんど無かった(届かなかった)ことによるものと思う。「伊藤一長さん、今までありがとうございました」といった氏名以外の無効票は1,095票もあったことは、「情報」が届かないまま判断停止せざるを得なかった長崎市民の姿が見えてくる。

過剰な数のメディアと過剰な量の情報の中で、マスメディアは相対的にその効果を落とし、ブログのようなパーソナルメディアやリアリティのあるイベントメディアにウエイトが置かれるようになった。サプライズといった手法も回数を増す毎にその刺激は半減していく。そして、一般的平均的に、あるいは一律的に情報が届く時代は既に終えている。その是非は別として、特定の世代内、特定のエリア内、特定のクラブ内、特定の興味、特定の帰属組織、特定の階層、・・・・全て「特定」の中での情報交流・交換の時代となってきた。次回新宿高島屋のリニューアルについてレポートするが、流通、商業施設も特定路客を中心に再編が始まっている。新宿高島屋は「大人の女と男」という団塊世代という特定顧客、特定市場に対してのリニューアルとなっている。先日オープンした東京ミッドタウンも同様であったし、今週末東京駅丸の内にオープンする新丸ビルも同様のコンセプトである。「大人の時代」というコンセプトをどうMDし、どう情報として伝えているか、団塊世代市場についてまたレポートしたいと思っている。(続く)

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2007年4月18日 (水)

自分確認市場 

ヒット商品応援団日記No159(毎週2回更新)  2007.4.18.

総世帯数が5000万を超え、生活スタイルはもとより生活単位においても個人化が進行している時代である。こうした一種バラバラな時代にあって、常に「自分確認」が必要となり、目に見えない様々な不安が確認を更に促す。自分確認をし何かに帰属させたいとアニメやフィギュアという虚構の世界に求める人を「オタク」と呼んでいる。一方現実世界の自分を「自分にご褒美」という形の消費によって確認する市場を「ミーギフト」と私たちは呼んでいる。この2つの市場は個人化という根っこのところではつながっており、その消費という表現の仕方が異なっているだけである。
ところで、自分確認は自分自身で行うことと共に、回りの人達との関係確認という市場をも形成する。帰属する共同体との関係、絆を確認し合うアイデンティティのことであり、一般的には記念日や行事といわれているものだ。会社という共同体ではバレンタインデーといった関係確認であったり、家族という共同体では誕生日、結婚記念日、卒業、入学、喜寿、米寿、といった様々な記念日となる。「今」という時代は時間のスピードは凄まじく、あらゆる時の境目を無くしてしまう。昼と夜、季節、仕事という社会時間とオフの私生活時間、こうした激変する時間の中で自分確認、アイデンティティ(自分を何かに帰属・同一化させること)の確認という「境目=時」を自ら作ることが不可欠な時代となっている。数年前から人気となっているブラダンスのようなクラブから始まり、mixiのようなSNSといったネット上の共同体まで、一人になればなるほど帰属する共同体は多様に無数生まれてくる。「自分探し」は中高生のものであるが、社会人にとってはいくつもの「自分確認=アイデンティティの確認」が日常的なテーマとなる。

”この味がいいねと君が言ったから7月6日はサラダ記念日” 俵万智

1987年260万部というベストセラーとなった「サラダ記念日」の一首である。青春期にあって人と人との関係の中で、その想いを瑞々しい感性で歌ったものであるが、マーケティングという視点に立てば、今日の生活者心理に潜む「時」認識を彷彿とさせる歌となっている。
心がそう想えばどんな小さな、ささいな出来事も自分確認できる「記念時」となる。つまり、マーケティングとしては、顧客に「そう想える」出来事を創ることによって、記念としての商品が販売できるということだ。一見普通に見える商品購入も、実は「今日はチョットうれしいことがあったから」といった「ヒトリッチ市場」となる。数年前から、「お一人様仕様」の旅や飲食などが若い女性に人気となっているが、最近では男性版「お一人様仕様」がホテルなどで出始めている。人間は一人では生きていけないが、ひととき自己納得、自分で自分を癒す市場はこれからも増大していく。
この「自分確認・自己納得市場」は、極論ではあるがどんな商品でもサービスでも購入&消費される市場という側面を持っている。当人が「そう想える」ということが唯一条件となる市場だ。ある意味心理市場というより、宗教市場と言った方が正確である。勿論、その宗派は「自分教」である。つまり、「そう想える自分確認」ができる、いやさせてくれるサービス市場と言った方が正確であろう。自己を投影した商品やサービスという「ナルシスト」な市場であり、今後も市場全体を覆っていく。

不安の時代にあって、「内なる自分」と「帰属する共同体」とを行ったり来たりすることの中に「自分確認市場」が生まれてくる。さて自分確認という自分の中に「何」を見出したいのであろうか。マズローの法則から言うと自己実現ということになるのであろうが、もっと日常的で手の届くものとしては「小さな幸福」だと思う。バブル崩壊後10数年を経て、島田洋七の「佐賀のがばいばあさん」やリリー・フランキーの「東京タワー」のような、どこにでもある「小さな幸福」に戻ったのだと思う。
こうした時代の市場創造は、新たな共同体を創っていくことだ。「孫の日」を筆頭に無数の業界団体による記念日が創られているが、これはこれで消費を促進させる一つの方法ではある。しかし、これからは、「好き」を入り口としたクラブのような、江戸時代でいうところの「連」のような共同体を創っていくことだと思う。その仮想共同体のコンセプトは、勿論「家族」となる。(続く)

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2007年3月25日 (日)

恋愛市場化の時代

ヒット商品応援団日記No152(毎週2回更新)  2007.3.25.

誰を顧客とするのか、このビジネスの大原則は古くて新しい。いや、今ほどこの原則をつきつめないと間違いなく失敗する時代である。1970年代の市場規定は収入といった経済をベースに、性別・年齢・エリアといったデモグラフィック的属性で顧客を決めていた。まだまだモノ不足の時代で提供者論理が中心であった。1980年代に入ると経済的には少しづつ豊かになり、個性あるいはセンスといった言葉に代表されるようにモノ価値以外デザインといった付加価値が生まれ、ユニセックスのように性別で顧客を決めることができなくなった。個性マーケティング、デザインマーケティングといったことばが生まれた時代である。1990年代はこうした経緯を踏まえ、更に「違い」を創造するためにモノ以外のサービスに力点が置かれ「個人」のサービス要望を聞きながら、商品を提供する時代へと向かった。世帯収入が右肩下がりになる1990年代後半には、そのサービス要望に価格を置いたのがデフレ企業であった。勿論、流通もこうした変化を受け、有店舗メディア、無店舗メディア、今やメディアミックスの時代となり、「お取り寄せ」ブームのようにいつでも、どこでも、欲しいものが手に入るようになった。

このブログで格差をテーマに何回か書いてきたが、東京ほど格差の激しいところはないとも書いて来た。釧路沖でとれた一尾700〜800円もする青刃さんまが飛ぶように売れていたり、沼津の一枚4000円もするアジの干物のお取り寄せに話題が集まったりしている。こうした時に使われている顧客名称が、2005年度の流行語大賞のキーワードの一つとなった「富裕層」である。この富裕層の定義の仕方にはいくつかあるが、野村証券の調査によると2005年の富裕層マーケットは81.3万世帯、金融資産は167兆円となっている。(http://www.nri.co.jp/news/2006/060905_1.html
プライベートバンキングの主要な顧客層であるが、1506兆円という個人金融資産の14.1%を占めていることに驚く。あるところにはある、というのが実感であるが、こうしたマーケットと低価格を売り物にしたディスカウンターのマーケットは明確に異なっている。ちなみに、2005年度には生活保護世帯は100万世帯を超えている。そのシンボルとして「東京足立区の修学援助率42%」というショッキングな情報の発端となったのが文芸春秋/2006年4月号の佐野眞一氏による「ルポ 下層社会」である。当時の夕刊フジ(http://www.yukan-fuji.com/archives/2006/08/post_6481.html)があるので興味のある方は見られたらと思う。

こうした経済から始まり、今流行のキーワードでいうとノンエイジング市場、ユニセックス市場、トレンド市場といったデモグラフィック的属性では誰を顧客として想定したらよいのか分からない多様なマーケットが存在する。百貨店顧客といったように流通で区分する方法もあるが、JR東日本の駅商業施設ecuteのようにミニデパ地下化した流通も出て来ている。また、最近ではネット通販のヒット商品が既存流通で販売されるものも出て来ている。話題になった「携帯小説」がアナログの書籍で店頭で売られるようなものである。
数年前にビジネス書において「one to oneマーケティング」が流行ったことがあるが、既に自明のことであり、すぐ廃れてしまった。顧客は全て「個客」を前提にして想定するのだが、重要なことは「何」に興味・関心をもった顧客かということである。必要でモノを買う顧客は少ない。どんなところにこころ引かれたのか、どんな点を素敵だと思ったのか、興味・関心を入り口にした「内なるこころ」に個客はいる。通販であれ、対面販売であれ、この「内なるこころ」を解き明かすことが、「誰を顧客とするのか」につながる。顧客を発見するとは「内なるこころ」の発見に他ならない。

顧客と直接顔を合わすことのない通販も同じである。多くの人が活用するAmazonのページをめくればそこには「この本を購入される人はこんな本も購入している」との表示がある。これも「内なるこころ」を次の購入へとガイドする一つの方法である。この仕組みもかなりの精度をもってきていると思う。カタログハウスでは顧客からの問い合わせや質問について、全て手書きのはがきで答えている。見えない顧客と「手書き」というこころで会話しようとしているのだ。対面販売しているから「内なるこころ」が交流しえる訳ではない。誰を顧客にするのかではなく、顧客を好きになれますか、が答えである。「好き」は「内なるこころ」の扉を開ける鍵となる。こうした心理が強く働く市場の時代とは、恋愛市場と考えなければならない。昨年秋以降話題となった山形新幹線のカリスマ販売員齋藤泉さんは、何故人より3倍4倍売れるのか、恋愛市場化している良い事例であろう。齋藤泉さんは記者の質問に答えて次のように答えている。
「お客さまはあったかいし、優しい。今ここにいなければ、この方と出会えなかった。この場にいれてよかったと。こんなに仕事が嫌なのに、こんなに得している」と。(http://www.yukan-fuji.com/archives/2006/10/post_7417.html)(続く)

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2007年3月18日 (日)

増殖する妖怪 

ヒット商品応援団日記No149(毎週2回更新)  2007.3.18.

3月16日ライブドア事件に対する地裁の判決が堀江貴文被告に下りた。また、その数日前にライブドア以上の巨額の水増し粉飾決算をした日興コーディアルグループは上場廃止にはならず5億円の課徴金だけで済むとの報道がなされた。誰もがその違いは何か、東京証券取引所の判断する物差しは何か、疑問に思っていると思う。株式公開・上場とは英語でゴーイングパブリック、文字通り「公」のルールに従うことを意味する。資本主義の成長は常に変化する「公」を追求することであった。常に変化するとは、分かりやすく言えば「グレーゾーン」の歴史でもあった。日本においてはグローバル化という未知の世界を2000年前後に規制緩和という形で取り入れてきた。建築においては高層化と共に申請審査は官から民へと移管し、その狭間で耐震偽装事件も生まれた。同じように会計基準も時価会計基準という2つの会計がなされるようになった。その延長線上にライブドア事件もあったと私は考えている。

つまり、ここ10数年は「グレーゾーン」が現実化し、そこにビジネスチャンスを見いだす若い世代も出て来た。その代表が堀江貴文被告であろう。丁度、一年前私はライブドア事件に対し、情報の罠というタイトルでブログを書いた。詳しくはここでは書かないが、グレーゾーン化した「公」とは何かを再確認しなければならないと思う。現政府がよく使う言葉に「官」から「民」へ、ということばがあるが、私は「官」から「公」へ、「民」から「公」へ、がこれから目指すべき社会の指針であると考えている。つまり、「官」も「民」も「公」という世界を目指すべきであるとの考えである。Web2.0もそうした「公」を目指すネット世界であるが、一つのモデルとして近江商人の商売の心得である「三方よし」も分かりやすい指針の一つであると私は思っている。売り手よし、買い手よし、世間よし、の三方よしである。以前このテーマで書いた事があるので参照されたらと思う。(http://remodelnet.cocolog-nifty.com/remodelnet/2006/07/index.html

ところで株式をはじめとした金融商品からごく日常使う商品に至まで、心理商品であることは何回か書いて来たが、そうしたこころを動かすもの、それは情報である。ある意味全てが情報商品になった時代に生きている。一時期ICチップを産業の米と呼んでいた時代があったが、情報はいまや産業ばかりか生活の米となった。国勢調査の推計によれば、2007年度は「夫婦と子供」といった普通世帯を単身世帯が抜き、DINKSと呼んでいる夫婦世帯も伸長し、総世帯数が5000万を超える個人化社会となる。悪く言えば、個人化とは「バラバラ社会」のことであり、個人をつなぐ情報は極めて重要なものとなる。

いやなことばであるが盲点となっている犯罪市場が増加しているように思える。最近の事例ではホームレスに対する医療扶助を悪用した病院犯罪には驚く。必要としない検査などをしたことにして、更には病院間でホームレスをたらい回しにして儲けるといった手口である。誰も社会のセーフティネットを悪用するとは思ってはいない。医療扶助はまさに「公」として重要で大切なものである。犯罪者にとっては、「官」が持つ年間の医療扶助費用は1兆3000億円という莫大なもので、書類という情報操作だけで自動的に収入が増える見えざる世界での犯罪である。
私はオンラインゲームをやらないので確かな実感はないが、オンラインゲームで使われる通貨の売買(RMTリアルマネートレード)は既に日本国内市場では150億円、利用者は7万人になっており、RMTを専門とする仲介業者も約80社あると言われている。(欧米や韓国では1000億円規模の市場となっている)ネット上で対戦し、勝つと通貨を手に入れる事ができるのだが、ネット上でもルールのない取引が横行していると言われている。(http://www5.plala.or.jp/SQR/ff11/archives/special/rmt.html)Web2.0という「公」の世界とは正反対の「公」の世界である。

全てが情報による「見えざる世界」の中の出来事である。今、悪意ある意図、恣意的な意図が情報という衣をまとった妖怪として、現実世界・仮想世界のあらゆるところで駆け巡っている。グレーゾーン化した「公」とは極まるところ他者に感謝することから始まる倫理である、と私は考えている。社会学でいうと、道徳と倫理は異なっていて、「外」に対するルールやマナーといったことは道徳であり、法や条例として制定される。しかし、常に未知なるグレーゾーンが生まれてくる。法や条例は常に後を追いかけるだけである。倫理とは「内」なるこころの物差しである。しかし、こころの物差しは時代と共に変化するのだが、「今」という時代においては変化というより混乱していると言った方が正確であろう。誰もが情報を使いビジネスや生活をしている。妖怪という衣を纏うか否か、自身にとっての「公」は一人ひとりのこころの中で問われている。(続く)

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2007年2月25日 (日)

駄洒落気分

ヒット商品応援団日記No143(毎週2回更新)  2007.2.25.

洒落は今で言うオシャレの語源で気の利いたことを指し示すものであるが、洒落に「駄」をつけると何か低級でセンスの無さを感じてしまうが決してそうではない。江戸時代上方から江戸に伝わってくるものを「下りもの」と呼んで珍重していたが、いつしか対抗して江戸の文化が生まれてくる。江戸文化の研究者の方から指摘を受けるかもしれないが、洒落に対する駄洒落は一種のカウンターカルチャー(対抗文化)のようなものと私は理解している。上方の押し寿司に対し、江戸ではにぎり寿司が生まれたように、文化という「違い」を楽しむ時代になってきている。今の流行もので言うと、刺繍されたジーンズに対するダメージジーンズのようなものだ。

ところで、和歌を詠むといった貴族文化は一つの季節行事として残ってはいるが、庶民が本格的に言葉遊びを楽しみ始めたのは江戸時代の川柳だと思う。初代柄井川柳(からいせんりゅう)が始めたものだが、庶民誰でもが参加できるように前句というお題に対し、それに続く句を詠む遊びである。日曜日の夕方日本テレビ系列の「笑点」を見ている方は分かると思う。この前句から続く後の句が独立したのが「川柳」である。連歌の練習としてスタートしたが、懸賞募集をしたことから庶民へと広まったと言われている。今は第一生命がスポンサーとして、同じように募集しているのが「サラリーマン川柳」である。(http://event.dai-ichi-life.co.jp/senryu/2007_best100.html)時代の雰囲気、世相をおもしろおかしく、ユーモアたっぷりに句が作られており、好きな人も多くいると思う。例えば、今年の応募作に次のような句が選ばれている。
◆  脳年齢 年金すでに もらえます  満33歳
こんな句から発想したのだが、任天堂DSのソフトに「脳齢年金受給ゲーム」といったブラックユーモアゲームなんかも作ったら面白いと思った次第である。この延長線上にはPCなどの「変換違い」や「言いまつがい」といった駄洒落もある。

敢えて、川柳を取り上げたのは、私たちのビジネスの考え方として、時代というお題に対し、後の句をどう詠んでいったらよいかよく似ているからである。しかも、川柳はくすっと笑える、そうそうとうなづける表現形式である。不安ばかりが増幅されている時代、停滞気味の市場情況の中にあって、顧客のこころの扉を開けるにはユーモア、遊び感覚こそ必要となる。以前、「標準語から方言へ」というテーマを書いたことがあったが、この方言をうまく使ったのは吉本の芸人であり、今回宮崎県知事になった東国原さんだと思う。東京に対するカウンターカルチャーとしての方言だ。
つまり、今流行っているものに対し、「アンチ」「反」「逆」を行ってみようということである。例えば、今や1億総健康時代で全てのものが健康を配慮したものとなっている。しかし、”食べたいものを食べる”というマーケットは小さいながらも存在する。マクドナルドの「メガ・マック」は米国では既に売られていない商品である。しかし、成人病をあまり気にしない給与もまだ低い若い男性サラリーマンというマーケットにとって、ある意味ヒット商品となっている。よく問題点の解決こそ、市場機会になると言われて来た。勿論、間違いではないが、逆に「良い点」は何かを探すことの中に、違う何かが見つかることもある。つまり、何が「良い」かという考え方を明確にすることでもあるのだ。どうすれば売れるか、どんなことをやればヒット商品になるかを考える前に、「これよさそうじゃない」「これって、おもしろそうじゃない」といった遊び感覚、駄洒落気分でやってみることも必要だ。以前取り上げた福岡の「こどもびいる」なんかはまさにそうした良き例である。(続く)

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2007年2月21日 (水)

「小」の経済学 

ヒット商品応援団日記No142(毎週2回更新)  2007.2.21.

経済単位が変わった。日常の食で言えば、あれこれチョットづつとなったのは既に10年前からであった。今やあらゆる分野で「小」単位が原則となってきた。「小」のビジネスを先行してきたのは周知のコンビニであったが、今や映画といった文化産業、エンターテイメントビジネスにおいても「小」が基本となってきた。スケールメリットという規模ビジネスは勿論あり得るが、それはNO1のみに与えられた戦略である。しかし、それですらいつしか崩壊していく様を何度となく見て来た。スケールメリットの多くは製紙や鉄鋼といった「装置産業」である。その装置が大規模工場であったり、大規模従業者数であったり、大規模資金であったり、人、物、金をいかに仕組みとして効率よく運営するかがメリット享受のポイントであった。興行収入で洋画を抜いた日本映画再生の秘訣は、「小」をいかに生かし切るかのアイディア・工夫にあった。映画産業は、ある意味職人ビジネスである。その職人を生かし、顧客が求めるビジネス規模に応えるための資金調達がポイントであった。あれこれチョットづつという多様な顧客志向を明確にし、ビジネスとして成立させたのが映画プロデューサーである。何が当たるか分からない不安の解決、特に投資資金の回収を可能にしたのが、リスク分散=小さな単位のファンド集めであった。東宝では20本の映画信託トータルでリターンを考える仕組みで、一口2000万という小さなファンドであった。資金も小さな単位で集め、小さな劇場・シネコンで放映し、小さな価格で楽しめるようになった、これが日本映画復活の鍵となった。

ここ数年前から、時間型サービス産業においても「小」が基本となっている。マッサージは10分単位、理美容院も30分のクイックサービス、快眠をテーマにした時間レンタルルーム、飲食店においても時間帯による入れ替え制を導入しているところすらある。物の単位ばかりでなく、時間の単位を「小」とすることによって「隙き間時間」という第三の市場が生まれる。そして、テーマですら「小」単位化が進んでいる。例えば、従来であれば中華料理には、四川料理、北京料理といった地域料理がテーマとなっていたが、今やフカヒレ料理や中国茶といったようにより細分化されたテーマ専門店となってきた。最近のショッピングセンターで成功しているフードコートもこうした専門店をうまく編集しているからである。

なぜこうした新しい「小」に着目したビジネスが生まれて来たかである。結論からいうと旧来の概念、業態や商品の変化要請があらゆる領域で、個性化=私化(個人単位)が行われ始めたということだ。例えば、ファーストフードとファミレスとは異なる第三の業態がこの変化要請に当たる。いわゆる食堂の再認識であり、大戸屋のような業態である。当然、ファーストフードやファミレスはその規模を「小」へと圧縮しなければならないのだが、物理的店舗を明日から半分にするという訳にはいかない。スーパーとコンビニについても同様である。スーパーサイドでは食品のフロアだけを24時間化し、一方ローソンのように生鮮品を扱うコンビニタイプを導入するといった第三の道の模索である。こうした第三の道で最初に成功したのが周知の和民であろう。居酒屋と食堂との間、居食屋という新しいコンセプトによる成功である。

このように全てが「小」ビジネス化していくことによって重要になるのが、その編集力である。流通では古くから使われている言葉であるが、一つの雑誌づくりのように売り場を見ていけば良いのである。特集、連載・シリーズもの、コラム、・・・・といった構成であるが、今注目すべきはコラムである。一番小さなスペースだが、小さいことによってより強い先行する「何か」を掲載できるのがコラムである。コラムニストの先人は天野祐吉さんであるが、最近は多くの人間がコラムニストを自称してきているのもこうした背景からだ。「小」であれば、たとえ失敗してもリスクは小さい。常に先行する何かを探る良き羅針盤にもなる。私は5〜6年前に百貨店のリニューアルの時に、「小」編集売り場やMDを提案したことがある。それは「ワンコインマーケット」という食品売場で、あれこれチョットづつを100円単位、500円単位の商品構成の編集であった。また、洋菓子についても、1個400〜500円のケーキと共に、一つのコラムとしてプチケーキセット3個550円というプライスの商品化の提案であった。ヒントは懐石料理の先付けであったが、既にある「小」の世界を転用する方法もある。大特集の時代から、小さくても光る「小」への着眼、コラム編集の時代へと移行した。(続く)

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2007年2月11日 (日)

まだら模様の情報格差

ヒット商品応援団日記No139(毎週2回更新)  2007.2.11.

情報格差の時代が始まっている。仮説はこうである。情報を発信するメディアの集積度合いの高い都市(中心)と低い地方(周辺)とでは情報量及び質が異なり、結果情報によって消費行動は異なったものになる。ところで、情報とは極まるところ「刺激」である。ある意味で刺激のない情報は情報ではない。今回の「発掘!あるある大辞典II」による納豆騒動を見れば一目瞭然である。私も周辺のスーパー3店舗ほど売り場を見たが放送直後の店頭には納豆はなかった。地方にいる知人とこの事件の話をしたところ、売り場には納豆があったとの話であった。勿論、スーパーに殺到したのは30代後半以上の女性、老化やダイエットを外側だけでなく内側(食)からも解決したいと考えている人達である。
昨年、サプライズといった過剰情報の時代は終えたと書いたが、まだサプライズ効果は一定のテーマ(健康&美容)マーケットにおいては存在していた訳である。情報を発信するメディアの集中度は都市、特に東京は極めて高い。既存のメディアであるTV局数を始め、新聞・雑誌やラジオ、最近話題のフリーペーパーの配布部数などの他に、情報発信という視点に立てば人メディア、街並界隈性というメディア、あるいは商業施設というメディア、勿論ショップも商品も絶え間なく鮮度&変化情報を発信している。高度情報化社会における特徴であるが、過剰情報、過剰刺激というカオスの中に都市生活者はいるということである。

こうした情報量という格差と共に質においても格差は生まれて来ている。情報は刺激であると書いたが、その刺激も心理学でいうところの動因(モーティブ)をその時に持った顧客が存在して初めて効果を発揮する。その動因とは興味を惹きつけるテーマであり、その時というタイミングによってである。例えば、情報産業であるコンビニの棚にある商品を時間帯毎に見ていけば分かる筈である。都市という人の流動性(=購買可能性)の高いコンビニは1日の商品の入れ替え頻度は極めて高い。地方のコンビニは入れ替え頻度は低い筈である。つまり、入れ替えというテーマ情報刺激を回数多くしているのが都市(中心)ということだ。情報産業であるコンビニも先行するセブンイレブンに対し、ローソンは立地によってテーマ性を変え、ナチュラルローソンや100円ショップのような「ローソン100」、あるいは刺身などの生鮮食品を扱う「ローソンプラス」まで情報刺激を変えてきている。つまり、小売業にとって、質とはその時欲しいなと思ったものが手に入る時間帯毎のテーマ編集となる。求められているのは「今」を売り続ける力である。ここ10年、渋谷109が快進撃を続けているのは、若いティーン女性の「今」を提案し続けているからである。

一方、地方(周辺)に情報刺激がないかと言えば、勿論存在している。しかし、圧倒的に情報のスピード、密度が低い。2007年春、東京では2つの大きなプロジェクトがオープンする。3/末には防衛庁跡地に東京ミッドタウン、4/末には東京駅丸の内に新丸ビルがオープンする。新たに「今」という情報の集積がなされる。六本木ヒルズのオープンほどではないにしろ情報興味集客=観光地的顧客は集まるだろう。
この情報格差を平準化する動きは、1996年以降のインターネットであり、2006年のWeb2.0だと思う。ビジネス、商業という面ではなんといっても楽天市場やヤフーオークションであった。出店企業、出品者の分布を正確に把握はしていないが、中心と周辺の格差はない。逆に、周辺であればこその知恵やアイディアを駆使したものが多い。放し飼いの鶏の有精卵や手作り酵母パンに始まり、最近では1枚4000円もする手作りアジの干物まで、一工夫されたものの多くは地方、周辺のヒット商品である。こうした小さなヒット商品は全て、都市生活者のライフスタイルを研究し、興味対象である「今」を言い当てているからである。但し、「今」は常に変化する。変化は顧客であり、常に自身もまた変わらなければならないということだ。1997年頃であったと思うが、当時ネット上で「雨降って傘屋どっと混む」というキャッチコピーで話題になった「心斎橋みや竹」のホームページ(http://www.kasaya.com/)を久しぶりに覗いてみた。やはり、「今」は存在し、顧客興味=市場機会の可能性を探り続けている。このように情報格差は、中心と周辺といったエリア間だけでなく、世代間、経済間、更にはマスメディアとネットメディアとの間においても生まれて来ており、まるで「まだら模様」の如くである。(続く)

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2007年1月31日 (水)

浮世の時代  

ヒット商品応援団日記No136(毎週2回更新)  2007.1.31.

江戸時代、庶民のライフスタイル全般を表した言葉が「浮世」である。今風、現代風、といった意味で使われることが多く、トレンドライフスタイル、今の流行もの、といった意味である。浮世絵、浮世草子、浮世風呂、浮世床、浮世の夢、など生活全般にわたった言葉だ。浮世という言葉が庶民で使われ始めたのは江戸中期と言われており、元禄というバブル期へと向かう途上に出て来る言葉である。また、江戸文化は初めて庶民文化、大衆文化として創造されたもので、次第に武士階級へと波及していった。そうした意味で、「浮世」というキーワードはライフスタイルキーワードとして見ていくことが出来る。浮世は一般的には今風と理解されているが、実は”憂き世”、”世間”、”享楽の世”という意味合いをもった含蓄深い言葉である。そこで、江戸時代の生活価値観、人生観を表すキーワードの背景を探ってみたい。

江戸は初期40万人ほどの人口であったが、次第にふくれあがり最終的には100万人〜120万人の世界都市となっていく。幕府は「人返し令」をつくり、江戸への流入を押さえようとするが、疲弊した地方からの流入をとどめることはなかった。人、モノ、金、情報、が江戸に集中し、地方の人間にとって魅力的であったと思う。今日の格差社会どころではなかった。この時代のライフスタイル変化の最大のものはなんと言っても、一日の食事回数が2回から3回になったことだと思う。当時は火事が多く、1日3回の食事をしないと力がでなかったためと言われているが、定かな研究をまだ目にしてはいない。恐らく、商工業も発達し経済的豊かさも反映していたと思う。その食事回数の増加を促したのが庶民にとっては屋台や行商であった。新たな業態によって新たな市場が生まれた良き事例である。この屋台から今日の寿司や蕎麦などが進化していく。いわゆる今日のファーストフーズである。江戸時代こうした外食が流行ったのも今日とよく似ている点がある。大雑把に言うと、江戸の人口の半分は武士で単身赴任が多く、庶民も核家族化が進み、独居老人も多かったという背景があった。今日で言うところの個人化社会である。「夜鳴きそば」という言葉がまだ残っているように屋台や小料理屋は24時間化し、更には食のエンターテイメント化が進み、大食いコンテストなんかも行われていたようだ。つまり、必要に迫られた食から、楽しむ食への転換である。その良き事例が「初鰹」で”初物を食べると75日寿命がのびる”という言い伝えから、「旬」が身体に良いとの生活風習は江戸時代から始まったようである。上物の初鰹には現在の価値でいうと20〜30万もの大金を投じたと言われている。こうした初物人気を懸念して幕府は「初物禁止令」を出すほどであった。料理本も200種類ほど出されており、今なお知られているのが「豆腐百珍」で、その後も「大根百珍」「卵百珍」という具合に料理もゲーム感覚となっていく。寿司に必要なさかなを江戸前と言って東京湾の小魚をネタにしていたが、常時食べられるようにいけすで魚を飼っていたという資料も残されている。今日でいうところの活魚である。江戸の後期には「冬場の焼き大福」「夏の冷水」「既に切ってあるごぼうや冬瓜」といった物にサービスを付加したものが売られ、幕府はこうした自由で便利になりすぎたとして規制するまでになったと言われている。

さて、1603年に江戸に幕府が置かれ、264年続く江戸時代を食を中心に見て来たが、今日の東京の戦後60数年の都市の生成過程と酷似していることに気づかれたと思う。経済的な豊かさを背景に、質素であった食は2食から3食へ、必要に迫られた食からエンターテイメントの食へ、自然時間に沿ったライフスタイルも深夜化、24時間化していき、更にはモノ価値から高度なサービス価値の創造へと進化してゆく。1700年代初頭は戦国の世から100年近くを経過し、心理的にも豊かな時代に向かっていた時代である。その象徴が旅でお伊勢参りがブームになっていく。こうした経済的豊かさの裏側には当然「負」の世界もある。今日のような親殺し子殺しもあり、歌舞伎の演目にもあるように「曾根崎心中」といった心中もある。以前快眠をテーマに江戸時代の睡眠実態を調べたことがあるが、強盗が多発しいつでも起きれるように柱にもたれて寝ていたといった資料も残されており、犯罪は多かったようだ。こうした犯罪もさることながら一番の不安は多発する火事で商家の裏にはすぐ建て直せるように材木を備蓄していた。更には、疫病という不安もあった。つまり、江戸の人はそうした不安の海に生きているという認識があり、一寸先は闇どころか板子一枚下は地獄で、人生はその海に浮かぶようなものだと思っていた。だから「浮世」とネーミングしたのだと思う。このように豊かさと不安、正と負が表裏となった生活は「今」という時代と同じだ。前号でふれたマスメディアとネットメディアの関係も、江戸幕府の広報である高札が表であり、浮世絵や浮世草子あるいは瓦版が庶民のメディアで裏の関係と同様である。つまり、表も裏も無い時代になってきたということだ。
今日を浮世と見るならば、商品のライフサイクルは短く、常に一過性のビジネス、ブームとの認識は不可欠である。今回の「発掘!あるある大辞典II」のねつ造も瓦版として見ていけば理解しやすいと思う。心中など実際にあった事件は歌舞伎や浄瑠璃という舞台に取り上げられ、今日のワイドショーのように注目・話題を集める。劇場化社会は既に江戸時代にあったのだ。ある意味、私たちは江戸時代の庶民と同様に、浮世という正と負を見据える醒めた目、憂う目が必要な時代だ。(続く)

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2007年1月28日 (日)

進化の視点

ヒット商品応援団日記No135(毎週2回更新)  2007.1.28.

量から質への転換と言われて6〜7年が経過した。バブルの崩壊を受けて、質の意味する世界を本物志向、こだわり、本業、モノから情報とサービスへ、といったキーワードで語られることが多かったと思う。それはそれで間違ってはいないと思うが、今その質が意味する世界も変わって来たと思う。私はその代表はなんと言ってもネット上でgoogleがやって来た世界だと思っている。世界中のあらゆる情報、無限とも思える情報を検索するという量への挑戦を愚直なまでに行い、その検索によって得られた世界こそ、私たちのあらゆるものへの変革を促すという質的変化を与えてくれた。今晩食べる料理は何にしたいか、健康状態や好みなど、その時いいなと思うレシピや飲食店の情報はいとも簡単に得られる。googleの地図にも驚いたが、youtubeのインターネット上のニュースは偽情報や混沌さやを踏まえた意味での「正確」&「全体」が得られるようになった。もはや既存のマスメディアと比べスピード速く詳細で真実があると断言する人すら出て来ている。マスメディアはネット上に表れた情報源を追跡確認をしてニュースにするといった方法へと転換している。今回のアパグループの耐震偽装のニュースについても、イーホームズ代表の藤田東吾氏の行動やコメントは半年前からネット上で多くの情報が流されていた。マスメディアは表、ネット世界は裏、といった従来の表裏の世界は表も裏もない時代になった。これほどライフスタイルを含め多くの質的変化を促したものはない。

ところで、もう少し長いスパンでこの40〜50年の時代変化を見ていくとよく分かることがある。例えば、1960〜70年代の電話の多くは大代表電話でオペレーターが担当へとまわすのがサービスであった。1980〜90年代にはダイレクトに担当部署へとかかることがサービスになり、周知の如く今や本人の携帯電話に直接かける時代となった。更におさいふ携帯など、今や携帯はケイタイへと進化した。このように新しい価値を増殖してきた訳である。1990年代、豊かな時代と言われた内容はこうした新しい価値転換のことであった。特に、1990年代半ばからのデフレはこの価値転換を急速に迫って来た。この価値転換の裏側にIT技術の発展と市場のグローバル化があったことは周知の通りである。しかし、同時に圧倒的なそのスピードに人の感覚が追いついていけない問題もまた出て来た。スローフーズ、不眠症、スローライフ、隠れ家、裏道、LOHAS、ふるさと、道草散歩、・・・・・ある意味バランスを取ろうとする人間の本性、本能であると思う。脳科学の茂木健一郎さんは創造性には「空白」が必要だと指摘している。空白があると脳は自然に埋めようと働き、そこに新たな価値発想も生まれてくるという指摘だ。この6~7年を停滞期とネガティブにいうのではなく、「空白」の時代であると私は理解している。

このブログにも書いて来たが、「今」はちょうど次へと進むための「踊り場」にいるという認識をしている。私はマーケティングという、顧客創造、市場創造を専門職としてきた。この10年、次の新しい価値を探るために勿論顧客研究をしてきた。いつしか昭和の時代へ、明治の時代へ、そして今日のライフスタイルの原型が「江戸時代」にあることへとたどり着いた。長いプロセス、進化の視点を持たないと「今」がよく見えてこないという直感があったからである。別な視点に立つと、今回不祥事を起こした不二家についても創業への原点回帰が言われている。その意味は、創業時の創造性はその時が一番「完成形」に近いからである。時間経過と共に、企業規模も大きくなり、複雑化していく。ある意味「偽物」になっていくということだ。その偽物が「今」を作り出している。つまり、過去を振り返ることは未来につながることだと思う。このブログで一年半ほど前に江戸のライフスタイルについて書いたことがあるが、次回から再度ふれてみたいと思っている。例えば、江戸時代を称して、エコロジー社会であったと言われている。いわゆる循環型社会であるが、木は勿論のこと、紙、灰、蝋(ロウ)といったリサイクルから、古着屋、損料屋・・・多くのエコ・ビジネスが盛んであった。こうした発想は今ではJRの切符の再生利用から、沖縄では黒糖を採った後のサトウキビの再生利用=メタノール生産まで進んでいる。茂木さんではないが、発想の転換、脳に「空白」を作り新たな発想を得るために「江戸のライフスタイル研究」をテーマに次号から書いてみたい。(続く)

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2006年12月24日 (日)

2007年ポリシーの時代へ    

ヒット商品応援団日記No127(毎週2回更新)  2006.12.24.

年末近くになり、マスメディアは一斉に2006年を振り返り始めた。ライブドアに捜索が入ったのは1月であったが、遠い過去のように思える。次々と新たな情報によって上書きされていく時代だ。過去を振り返ることはあまり好きではないので、振り返らないが、情報が行き交うスピードは年々速くなっていくと感じている。マーケッターとして、トレンドの状況をある程度は追いかけるが、常に立ち返る場所がある。それは、コンセプトは何か、掲げるポリシーはどうか、という問いである。そして、それらは生活者にとってどんな意味を持っているのか、という問いかけでもある。

1週間前に「2006年ヒットの読み方」でヒット商品の視点、視座として「知」について書いたが、その「知」のあり方、特に情報と知についてふれなかった。本格的に情報を集め、分析し、一つの私見を述べたかったのだが、今年最後のブログということから、私自身の宿題のつもりで書くとやはり「Web2.0」というテーマである。現象面で言えば、「yutyubu」になるが、ヒット商品という言い方をすれば来年あたりには大ヒット商品としてマスメディアも取り上げざるを得ないことになると思う。ただ、ネットの世界だけでなく、日々の生活を送る地域文化共同体、コミュニティにおける「Web2.0」はどうあるべきか、未だ表に出て来ていない。おそらく、私が知らないだけで、どこかの地域で行われているのかもしれない。あるいは地域ブランドといった矮小化した形で伝えられているのかもしれない。

いずれにせよ、マスコミが取り上げない情報が否応なく表に出てくる時代を迎える。ブログが1000万を超えると思えば、広告に代わって「やらせ」や「恣意的」ブログが急速に増え、一時期の「2チャンネル」のような喧嘩も出て来ている。しかし、そうしたブログは継続できないと思う。意見や価値観の違いはあって当然で、まともな対立は「yutyubu」のようなメディアを使って行われると思う。政治的あるいは社会的なことばかりでなく、ヒット商品をネット上で生むために、既に数多くのやらせブログが存在していることも知っている。しかし、そうした商品も長続きはしない。ヒット商品には明確なポリシーのもとで、顧客貢献する何かを持ち、魅力的なコンセプトとなっている。その魅力の広がりの先に社会貢献もある。2007年は猛スピードで駆け抜ける情報に「真」があるのか、それは「信」足りうるのか、見極めることのできる年となる。2006年、私たちは、情報の偽装、偽計、粉飾、うわさ、やらせ、といった情報体験を積んできた。そして、マスメディアが取り上げない、誰も知らない埋もれた商品が表へと出て、ヒット商品が生まれる。そんなポリシー&コンセプトの競争という本当のマーケティングの時代を迎えると思う。いや、そう願っている。この一年、堅苦しいコメントをお読みいただきありがとうございました。

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2006年12月 3日 (日)

過敏反応市場 

ヒット商品応援団日記No121(毎週2回更新)  2006.12.3.

このブログを書いて1年3ヶ月になる。おそらく具体的に着目すべきマーケティングテーマ&方法は全体の50%位は占めていたと思う。その内、50%位は「こころ」の問題、生活者のこころの置き場所や揺れ動くこころの問題解決であったと思っている。そうした世界を心理市場と呼んできたが、経済を始め、都市と地方、情報の使用といった様々な格差を背景にマーケティングで解決できる世界をより複雑化させていた。これが素直な私の実感である。特に、東京と地方とでは市場として全く異なるもので、東京のように消費が生産であるようなあり方と、生産も消費もする地方とは異なる消費性向を見せる。セブンイレブンのおでんが地域によって味を変えたり、以前からそうであったが沖縄と本土の味は変えているといった違いではない。決定的な違いはそこに住む生活者の「こころ」のあり方である。都市化という怪物によるこころの疲れや場合によっては鬱といった病気にまで及ぶ精神的な市場の違いである。

今から10年ほど前になるが、駅のショッピングセンターで来館者調査をしたことがあった。ちょうど顧客満足がテーマとなった時期である。数年間、定点観測したのだが、○○店の店員から睨まれた、あるいは無視された、といった「何気ないこと」へのクレームが年を追う毎に増えていった。一方、あの一言がうれしかった、名前を覚えていてくれた、といった小さな気配りに大きくこころが動かされた、といった感謝の声も同時に増えていった。その時の分析だが、気持ちが大きく購買を左右する心理市場へ入って行ったなというのが答えであった。良くも悪くもこころが大きく揺れ動く時代がやってきたということである。その時のキーワードが「敏感顧客」であった。バブル崩壊後も世帯収入は増えていくが、1997年をピークに以降からは下がり続け、金融不安があちらこちらで起こり、少年による凶悪犯罪も増加し、・・・・・不安の時代に入った頃である。こうした不安を背景に、あらゆることに敏感に反応する顧客が出現してきた訳である。

そして、「敏感」は過剰な情報によって更に進み、神経過敏症顧客とでも呼ぶような一種の脅迫観念をもつようになってきた。特に、健康不安の場合などはサプリメント依存症のように「何か」に依存、頼る傾向となって現れてくる。例えば、都市女性=ひとりリッチ市場とは、反面孤独で何かに頼らざるを得ない市場である。つまり、消費面で旺盛にならざるを得ないということだ。
勿論、そのこと自体は決して悪いことではない。しかし、オレオレ詐欺までいかなくても、「神経過敏症市場」に対し、不安を過剰に煽るようなことであってはならない。しかし、情報の時代にあっては、その動きを止めることはできない。「うわさの法則」でも書いたが、情報は勝手に「一人歩き」するのが本質である。しかし、この数年間多くの情報体験を通じ学習してきた。その学習結果得られたことは、情報発信者の徹底した「情報公開」と、自らの「体験実感」の必要性である。つまり、商品やサービスを提供する側はこの2つを徹底することだ。例えば、過敏症顧客を前にした時、あえて一定以上は売らないということも必要になる。特に、情報リテラシーといった情報を使いこなすための方法すらも提供しなければならない。そうしたことを含め、顧客にとって今「何」が必要なのかという、顧客主義の原点に立ち戻ることだ。(続く、今週は7日に更新します)

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2006年11月19日 (日)

過剰情報時代の2つの眼 

ヒット商品応援団日記No117(毎週2回更新)  2006.11.19.

今年1月「情報の罠」というテーマで耐震偽装事件、ライブドア事件にふれて情報化社会における「罠」について書いた。こうした事件によって「そこに見えるのは偽計、風説、偽装、粉飾、といった情報操作によって右往左往する個人である」と。偽メール事件を持ち出すまでもなく、「情報」のもつ価値がいかに大きいか思い知っている。今、知っての通り、文科省大臣宛に27通の自殺予告文書が送られ、その真偽のほどが調査されていると報じられた。そして、相次ぐ自殺者も出てきた。ここには過剰報道による連鎖が明確に出てきている。TVを中心に、新聞、雑誌、ブログなどのニュースのほとんどはいじめや履修偽装といった「教育崩壊」か、幼い子供への虐待死などの「家族崩壊」である。人は「不可解さ」「曖昧さ」に対し、漠としたとした不安に我慢できなくなる。当然、情報の受けてには過剰反応が生まれる。これが社会心理におけるパニックへの予兆である。

誰もが知っているパニックというと、1973年に起こった「トイレットペーパー騒動」であろう。原油価格を70%引き上げる決定を受けて、「紙の節約」を発表したところ、「紙がなくなる」という噂が流れパニックに陥り、その騒動を「あっという間に値段は2倍」と新聞が報じたことにより、更に買い付け騒ぎが大きくなった社会的事件である。あるいは給食によるO157集団感染の原因と噂され大きく報道され、結果カイワレ大根業界が壊滅的打撃を受けた事件。社会心理学でいうと、うわさやデマといった流言は社会的危機において多発すると言われている。安定という社会のシステムが壊れ、こころが適応できなくなる訳である。こうした不安心理という潜在的危機に「情報」が繰り返し流されることによって、危機は顕在化する。トイレットペーパー騒動における新聞報道と今回の自殺予告文書に対する大臣見解の記者会見報道は同じである。残念なことに、情報があらたな情報へと連鎖し始めた。うわさとデマは異なり、デマはある意図をもって流される情報であるが、この2つが判別、予測できないような情報のカオスがやってくる。

しかし、同時に自らの考えをもって「教育」のあり方を提起する中学が出てきている。例えば、札幌の中学生たちが今回の教育基本法案に対し安倍総理に手紙を送っている。勿論、匿名ではなく実名でだ。ところがそのことを知った匿名の「大人」から脅迫とも取れるメールが送られてきたという。(札幌テレビ http://www.stv.ne.jp/news/streamingWM/item/20061117182019/index.html)この報道の詳細については分からないが、少なくとも自身の問題として受け止める中学生がいることは事実である。
私はマーケティングに携わる人間であり、社会の事象、出来事は無縁どころか不可分なものとして受け止めている。体験・経験の少ない子供に対し、キッザニアのように社会体験を提供するサービスが注目されるのは良く分かる。今、札幌の中学生のように、自ら教育を受ける子供たちが「教育」を考える活動体験は極めて大切である。マスコミ、ジャーナリストはこうした情報を伝えてはいないが、おそらく全国の中学校でこうした未来への芽が生まれていると思う。多様多元的な価値観が錯綜し、混迷する時代にあって、そうした情報には2つの眼で見ていくことが必要だと思っている。1つは俯瞰的な鳥のような眼と、もう一つは札幌の中学生のような当事者の目線と同じ高さの眼である。(続く)

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2006年11月 1日 (水)

個人化というストレス社会 

ヒット商品応援団日記No112(毎週2回更新)  2006.11.1.

今年の年頭ブログで混乱の一年になるだろうと書いたが、今いじめによる子供たちの自殺や大学受験のための履修科目の偽装など教育現場が混乱の極みとなっている。更には、親殺し、子殺し、幼児虐待、陰惨な事件も多発している。また、飲酒運転をはじめ、ゴミ屋敷や違法駐輪などの違法行為や迷惑行為が日常となっている。誰もがおかしい社会になっていると実感しているが、なかなか議論が噛み合ない。私はこうした混乱の背景には象徴的に言うと個人化の進行に伴う「家族の崩壊」があると考えている。5月7日号の「家族のゆくえ」で次のように私は書いた。
”ケータイによって、個人から個人へといつでもどこでも瞬時につながり、情報を取り入れることがいとも簡単になった。しかし、同時に情報によって翻弄される「個」でもあった。その象徴例と思うが、たった一人、若い個達は友を求め街へと「漂流する」か、「ひきこもる」ことになる。「夜回り先生」こと水谷修さんが街へと夜回りしながら掲示板を開設するのもこの時期からである。既に、家族は崩壊していた。まだまだ残すべき家族という「過去」があると声をあげて言う人は少なかった。”

結論から言うと、こうした混乱や事件の裏側には、社会の最小単位が個人となり、自己責任という名のもとに「私(生活)主義」が大きな価値観として占めるようになったことによる。よく言われる核家族化とはバラバラ家族のことであり、そこには自分だけがいて他者はいない。戦前あるいは昭和30年代ぐらいまでは家族が社会としての最小単位であった。そこには寺内貫太郎一家ではないが、働き者のがんこオヤジがいて社会への窓口であった。子はオヤジという社会を通して多くのことを学んだのである。今や歌舞伎や伝統を受け継ぐ職人の世界、あるいは結婚や葬儀などの冠婚葬祭時の形式にのみ「家」が存在している。そして、戦後社会では家に代わるものとして会社があり、名刺には肩書きが必ず書かれている。崩壊した家(家父長という階層)の代わりが会社であると指摘をしたのは丸山真男さんであるが、その家の代替物である会社は1990年代半ばから終身雇用制から個人契約制へと変化した。そして、初めて「公的」な私と「個人」としての私の2つの私に向き合うことになったのである。公的とは平易にいうと、世間であり、世間という法のもとで生きることである。しかし、法は常に時代変化の後を追う。また、個人単位の小さな日常にまでは介入しない。幼児を虐待していても親権を立てにするため幼児を社会へと奪い返すことはできない。
あるいは今回の履修科目偽装に見られるように、2つの私の狭間に悩む学校長の自殺、あるいは公という「みんなで渡れば怖くない」式の無責任体系が現出する。個人が2つの私を我がものとするにはまだまだ未成熟である。しかし、一番弱い子供やお年寄りに対して放置してはならない。

江戸時代には大家(おおや)という町の治安や長屋などの共有スペースの運営維持、店子(たなこ)の世話をするコミュニティのリーダーがいた。”大家といえば親も同然、店子といえば子も同然”といわれるように、夫婦喧嘩の仲裁から酔っぱらいの保護にいたるまで重要な役割を担っていた。大家とはその名のごとく大きい家の主であった。江戸の人口は120万人、大家は2万人いたと言われているので、60人ぐらいのコミュニティのリーダーであった。今も残る祭りが町単位で行われるのも、わが町を良くしていこうという競い合いの表現でもあった。介護や育児も町ぐるみで行い、そうしたことを誇りとしていた訳である。今、家族という単位は崩壊し、全ての解決場所が個人になった。いじめる方もいじめられる方も家庭に原因があると指摘する専門家も多い。全てが個人解決になることからストレス社会になるのは至極当然で、それは子供の世界にまで及び始めている。いじめが直接的なストレス社会の産物だとはいわないが、しかし一度立ち止まって考えることが必要だと思う。そんなこころの持ちように詩人の谷川俊太郎さんが一つの示唆をしてくれている。これは糸井重里さんが主催する「ほぼ日刊イトイ新聞」の中で読者であるお母さんと子供のやりとりに答えたものである。

【質問六】
どうして、にんげんは死ぬの?
さえちゃんは、死ぬのはいやだよ。
(こやまさえ 六歳)
追伸:これは、娘が実際に 母親である私に向かってした
   質問です。目をうるませながらの質問でした。
   正直、答えに困りました〜
   
■谷川俊太郎さんの答え
ぼくがさえちゃんのお母さんだったら、
「お母さんだって死ぬのいやだよー」
と言いながらさえちゃんをぎゅーっと抱きしめて
一緒に泣きます。
そのあとで一緒にお茶します。
あのね、お母さん、
ことばで問われた質問に、
いつもことばで答える必要はないの。
こういう深い問いかけにはアタマだけじゃなく、
ココロもカラダも使って答えなくちゃね。

「アタマだけじゃなく、ココロもカラダも使って答えなくちゃね」と答える谷川俊太郎さんの温かいまなざしに多くの人は共感すると思う。アタマという言葉を理屈という言葉に置き換えても、ココロを素直にと置き換えても、カラダを行動すると置き換えてもいいかと思う。そして、この答えはお母さんに対してだけではない。教育者にも、社会に対してもである。(続く)

追記 前号で福岡県岡垣町の「野の葡萄」についてレポートしますとお知らせしましたが、代表の小役丸さんはじめ素敵な方々と出会い、常に行列ができる店の心髄にふれさせていただきました。中途半端になることもあり、ブログではなく、きちっとした形にてレポートさせていただきます。

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2006年10月22日 (日)

都市別荘 

ヒット商品応援団日記No1089(毎週2回更新)  2006.10,22,

六本木ヒルズがオープンした時、盛んにいわれたことの一つに「職住近接」「職住一体」があった。ある意味で「時間」を買うことに他ならない働き方、生活の仕方である。数年前から深夜時間帯のTV視聴率が上がり、また早朝の時間帯では英会話スクールやスポーツジムが盛んである。「24時間化」というキーワードはCVSの成長とパラレルで15年ほど前に流行ったが、今や日常になっている。春夏秋冬、四季という自然時間感覚は、都市生活者にとって既に失ったものであるが、24時間1日及び1週間という時間感覚は社会時間ということもあって、かろうじて残ってはいる。私たちはこうした時間に追われる生活から、ひととき休みを取ってリゾートなどで癒されることとなる。ちなみに、1960年と2000年との睡眠時間を比較すると、40年間で50分も減少している。新しく得た50分の多くは自由時間として使っている。このブログでも様々な視点からライフスタイルを見てきたが、新しい時間の使い方が「都心回帰」によってどう変化していくのか、その芽が出始めている。

既に死語となったことばの一つに「ベッドタウン」がある。団塊世代にとっては通勤ラッシュとともに実感することばであるが、若い世代には意味が分からないと思う。ベッドタウンとは東京でいうと多摩ニュータウンのように通勤に1時間以上かかる郊外にある住居、そのライフスタイルを総称していた。昼間働き、夜寝に帰るという意味のベッドタウンである。こうしたライフスタイルは2000年頃から大きく変わることとなった。これが都心回帰で、都心の地価が下がったことと規制緩和による住居の高層化により、求めやすい住居価格になったことによる。今や、人口流出が激しい多摩ニュータウンでは空室が多いだけでなく、お年寄りもまた多く孤独死などの対策に追われている状況となっている。
さて、こうした都心回帰による新しいライフスタイルを本格的に見せてくれたのが豊洲一帯の再開発である。六本木ヒルズが特定の人たちの職住一体型の街であるのに対し、銀座までわずか10分という豊洲地区は多くの人が購入しえる価格帯の住居が約2万戸予定されており、文字通り開かれた街となる。特に、目の前には東京湾があり、潮風を日常的に感じ取れる海浜リゾートとしての条件も備えている。

ところで、その豊洲の中心となる、「ららぽーと豊洲」へ行き2時間ほど歩いてみた。ある意味で商業はそこに住む人たちの生活未来を映し出すものであり、どんなライフスタイルがそこから見えてくるか興味があったからである。日本初、東京初というショップもあるが、そうした個々のショップについては後日取り上げてみたいと思うが、ここではテナント構成とゾーニングから見えてくるものに絞ってみたい。テナント構成については子育てファミリーをかなり意識しておりギャップキッズに代表されるように価格帯もかなりリーズナブルになっている。当たり前であるが、アパレルファッションもカジュアルなものが中心でスーパーブランドは皆無である。つまり、日常型高頻度使用型のテナントである。また、キッザニアに話題が集まっているが、シネコンや東急ハンズ、スポーツクラブなど休日型テナント・施設が多くなっている。もう一つの大きな特徴は、石川島播磨重工のドッグ跡地の再開発ということから、ドッグを囲むようにオープンテラスの飲食施設が配置されている。いわゆるリゾートホテルのオープンエアーのカフェなどをイメージされたら良いかと思う。植栽が未だ根付いていないため、海浜リゾートの雰囲気は乏しいが、数年先には散策やファミリーの良い遊び場になると思う。つまり、旧来はリゾートと言えば非日常、休日のものであったが、日常の中に、都市の中に、リゾート・休日を取り入れた生活未来を描いていると私は思っている。私は、そんな街づくりコンセプトを「都市別荘」と呼んでみた。NYはマンハッタンと比較する人もいると思うが、数年先には豊洲はTOYOSUという新しいライフスタイルが生まれてくると思う。つまり、モノの豊かさから、時間を楽しむ豊かさへの転換が、このららぽーと豊洲が描くライフスタイルであると思う。(続く)

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2006年10月18日 (水)

私のWeb2.0 

 ヒット商品応援団日記No108(毎週2回更新)  2006.10,18,

今年の春「ウェブ進化論」(梅田望夫著ちくま新書)を興味深く読んだ。多くの方も読まれていると思う。流通業は情報産業であらねばならないということはかねがね認識していたが、インターネット、Web上の分からなかったことがよく理解できる本であった。私はWebにおける技術者ではないので、著者の梅田さんのように直線的にWebによる変化という未来を想像することはできない。今、私はいみじくも直線的という形容詞を使ったが、どんなにテクノロジーが進化しても、それを使うのもまた人間であることを含め、こころまで100%管理(=検索)されることはないと考えている。特に、常に揺れ動く心理的市場下にあって、心を読み解くことは現時点では不可能だと思っている。しかし、この半年常にこの「ウェブ進化論」、というよりグーグルやアマゾン、あるいはYahooや楽天市場のことを考えてきた。梅田さんがWebの「こちら側」と「あちら側」とに分けて書かれている整理はよく分かるが、私自身はどちらかと言うと「こちら側」の人間である。テクノロジーの理解が遅れている私でも、Web上には既に独自の大きな「経済圏」という消費社会が出来ていること位は知っており、更に巨大化していくことも理解している。また、若い世代がチャレンジしようとしている世界であることも知っている。

丁度1年半ほど前、元ライブドア代表の堀江さんがニッポ